当サイトはアフィリエイト広告を利用しております

吉田健一のデビュー作『英国の文学』とその続編を読んでみた

2023年11月22日

吉田健一といえば20世紀の日本を代表する文芸批評家のひとり。ちなみに健一の父は第45代内閣総理大臣の吉田茂。

その吉田健一のデビュー作が『英国の文学』(岩波文庫)でした。

14世紀のチョーサーから20世紀初頭までの英国文学を縦横無尽に論じたもの。学問的な文学史ではなく、著者の思想が強く打ち出されるエッセイに近いです。

吉田健一といえば異様な文体で有名。しかし本作の時点では文体はわりと普通で、けっこう読みやすいです。

内容はだいたい次のような感じ。

・英国人と英国文学の特徴
・チョーサーとマロリー
・エリザベス朝の文学
・シェイクスピア
・形而上学派の詩人たち
・英国の宗教文学
・18世紀の小説
・ロマン派の詩
・19世紀以降の文学

以下、注目ポイントをざっと概観してみましょう。

英文学の始原チョーサーとマロリー

チョーサーは14世紀の文学者。『カンタベリー物語』で有名です。なぜこの人に着目するかというと、英文学のスタート地点がチョーサーにあるからです。

当時の書き言葉はラテン語かフランス語でした。英語は日常的な口語でしかなく、しかも地方ごとに方言がバラバラで、標準英語のようなものはなかった。

Right Caption
ちょうど昔の日本で、書き言葉は漢語、口語の日本語は藩ごとにバラバラだったようなものです。

しかしチョーサーはあえてロンドンの方言で書きました。そしてこれが英文学の標準的な言語になります。標準語だったロンドン英語で書いたのではなく、チョーサーがロンドン地方の方言で書いたから、それが標準語になったのです。

この意味でチョーサーは、のちの英文学のルーツをなしています。

 

一方のマロリーは『アーサー王物語』が有名。

チョーサーは伝統的な叙事詩のかたちで書きましたが、マロリーの作品は散文です。これこそが英国文学史上はじめて、わかりやすい散文で書かれたのが作品でした。

薔薇戦争の終結で、英国から騎士道は消え去ったといわれます。しかしマロリーはその作品中に騎士道の観念を再現し、多くの読者を集めました。日本の時代小説みたいな感じですかね。

 

シェイクスピアは旧約的

『英国の文学』でもっともページ数を割かれている作家は、やはりシェイクスピアです。

扱われる作品は『ロミオとジュリエット』『十二夜』『ハムレット』『リア王』『あらし』。

面白いのは、ボードレールやドストエフスキーが新約的なのに対して、シェイクスピアは旧約的だと述べているところ。

Left Caption
吉田健一によると、そもそも英国人が旧約的な性格をもっているそうです(英国人は新約聖書よりも旧約聖書を好んだ)。

新約とのいちばんの違いは、許しや融和がないこと。

キリストが地上に降りてきてすべてが一体になる、みたいなのがキリスト教的なイメージ。一方で旧約は、神と人とが断絶し、地上では不幸な人生がひたすら量産されるみたいな感じです。

吉田は『リア王』について次のようにコメントしています。

ボオドレエルやドストエフスキイにとっては、悪とはこれと格闘し、その悪との戦いに敗北して絶望したその彼方に救いを予知させるもの、またその意味では、快癒期の病人が懐かしく回顧する大患の苦みのようなものであるが、リヤの場合、悪とはどこまでも憎み、呪詛する他ないものであり、それとの戦いは悪が消滅する日まで続く。

(吉田健一『英国の文学』)

この苛烈で荒涼とした世界観を和らげるために英国文学が発明したのが「感傷」だったと、吉田は指摘します。

ちなみにこれがもっとも顕著に現れるのはディケンズです。

関連:シェイクスピアはどれから読めばいい?【この順番がおすすめ】

 

欽定英訳聖書とミルトン

「英国の宗教文学」の章では、聖書とミルトンが取り上げられます。

1611年、ジェームズ1世の命令によりできあがった、聖書の英訳バージョン。これを欽定英訳聖書と呼びます。

この英訳聖書の文章が、「英語」という言語を形作っていきました。のちの標準英語のモデルとなったわけですね。

しかも、吉田健一によると、この英訳聖書は文章の出来栄えがすばらしかったらしい。

文学の点から言っても明らかに傑作である一箇の作品を熟読する機会が一国の国民全体に長年月に亙って与えられるというのは余り類例がないことである。(吉田健一『英国の文学』)

日本にはこういう文書はないですよね。百人一首はそれに近い気がしますが、あれは一種の詩ですし。

 

ミルトンについてはその技巧の凄さが指摘されます。

シェイクスピアがあまり考えることなく無自覚に技巧を駆使できる天才だったのに対して、ミルトンのそれはもっと意識的な、まさしく達人芸だったとのこと。

代表作『失楽園』についての解説もけっこう長め。

関連:神vsサタンに巻き込まれた人間 ミルトン『失楽園』【要約】

 

ヴィクトリア朝と児童文学

19世紀の英文学ばディケンズを中心に語られます。

またジェイン・オースティンについて、生活への密着という点で、それがもっとも英国的な文学であると。

興味深いことに、吉田は子供向けの文学にも軽くふれています。

英国の児童文学は世界でも群を抜いていて、しかもその名作の多くはこの時代に書かれたと。『ピーターパン』『くまのプーさん』『不思議の国のアリス』『小公女』などなど。

Right Caption
そもそもディケンズの小説にもどこか児童文学的なトーンがあるような気がする。

そして児童文学に強い英国というのは、現代でもやはりそうですよね。たとえば『指輪物語』『ナルニア国物語』『ハリーポッター』、このへんぜんぶイギリスなんですよ。

なぜ英国で児童文学が栄えたのか?理由が気になるところです。

 

続編『英国の近代文学』も読んでみた

『英国の近代文学』(岩波文庫)のほうも読んでみました。『英国の文学』(同じく岩波文庫)の続編です。

前著が14世紀のチョーサーから20世紀初頭の英文学を一挙に見渡していたのに対して、こっちは近代の小説家を集中的に扱っています。

『英国の文学』に比べて、より哲学的な文章になっている気がします。吉田健一といえば異様な文体で有名ですが、だんだんその片鱗が見えてきてる感じ。

扱われる作家は以下の通り。

・ワイルド
・シモンズとヒューム
・エリオット
・リチャーズとエンプソンとリーヴィス
・ストレーチェイ
・イエイツ
・ホプキンス
・トーマスとルイス
・ロレンス
・ジョイス
・ウォー

『英国の文学』に比べるとだいぶマニアックな感じ。正直な話、僕が知らない作家が何人かいます。

 

ポストモダン的な近代観

『英国の近代文学』を読んで思ったのは、吉田健一の近代観がとても変わっているなということ。

近代というよりは、ポストモダンについての話を聞いている感覚になるのです。

吉田によると、近代とは秩序なき混乱と豊穣の時代です。すべてを見通すメタな観点は存在しません。ピラミッド型の秩序が崩れ、各自がめいめい好きにやってるのが近代というわけです。

そして近代文学とはことばに着目した閉じたシステムのことをいいます。

近代文学は、たとえば政治や道徳と直接的なつながりをもちません。時には政治や道徳が表現の対象になることもありますが、それは偶然にすぎない。あくまでも自律的に動くのが近代文学です。

吉田によると、この意味での近代文学の開始地点はエドガー・アラン・ポーにあります。

ポーはただただ言葉に着目し、言葉を手段のみならず目的であると考えました。これはまさに吉田の定義する意味での近代的な性格です。

世界文学の上では、近代はポオから始って、ボオドレエルがこれを受け継ぎ、それがフランスの象徴主義に発展して、最後にヴァレリイが近代というものにその定義を与えた。(吉田健一『英国の近代文学』)

そしてイギリスにおいてポーの役割を果たしたのがオスカー・ワイルドでした。

英国では、近代はワイルドから始まる。(同書より)

 

柄谷行人と吉田健一の近代文学観の違い

柄谷行人の近代文学観を比べてみると、吉田の特徴がはっきりします。

柄谷いわく、近代文学は確かに個の観点に立脚するけれども、それが普遍的な立場と結びつく限りにおいて近代文学たりうるのです。

感性(個)が想像力(文学)を介して普遍(政治・社会)につながること、それが近代文学の条件です。

だから柄谷的にいえば、そうした条件が失効した現代においては、近代文学はもう終わった存在ということになります(近代文学の終わりについての論考は『思想と地震』に収録されています)。

おそらく柄谷の理解のほうがスタンダードなものだといえるでしょう。

吉田健一のいう、普遍とのつながりなど関係なく自律的にことばを紡ぎ続ける文学というのは、近代文学というよりもむしろポストモダン文学と呼んだほうがしっくりきます。

そしてその意味での文学ならば、現代においてもまだ生き続けていると思われます。

文学の本

Posted by chaco