なぜドストエフスキーはロシアで復活し欧米で存在感をなくしたのか『小説家が読むドストエフスキー』
このあいだ読了した『21世紀ドストエフスキーがやってくる』に、亀山郁夫と加賀乙彦の対談が収録されていて、おもしろく読みました。
そのなかで亀山が加賀の『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書)をべた褒めしてたんですよね。
それ以来ずっと気になっていたこの本。
先日、中古本屋で見つけ即座に購入。
2003年に朝日カルチャーセンターで行われた講義が元になっています。
そのため文章はですます調でなじみやすく、かなり読みやすい。
『死の家の記録』『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の5作品が、順番に解説されていきます。
カトリック教徒にしてプロの小説家
この『小説家が読むドストエフスキー』には、他書にはない重大な特徴があります。それが以下の2点。
・著者がプロの小説家であること
・著者がキリスト教徒(カトリック)であること
加賀乙彦はプロの小説家にしてキリスト教徒なんですね。なぜこれが重要かというと、ドストエフスキーもプロの小説家にしてキリスト教徒(ロシア正教ですが)だからです。
いわば本書は、同業者が同業者を語るかっこうになるわけです。これは他のドストエフスキー本ではなかなか見られない特徴でしょう。
著者自身この2点を存分に活かして本書を書いています。これが、本書を興味深いものにしている理由です。
プロの小説家だから発見できるドストエフスキーの創作テクニック、キリスト教だから理解できるドストエフスキーの思想。
これらへの指摘がふんだんに盛り込まれ、新書ながらも読みごたえのある本になっています。
日本とソ連のドストエフスキー論が偏る理由
加賀乙彦の本でとくに重要なのは、ドストエフスキーを宗教小説家と規定している点ですね。
ソ連や日本のドストエフスキー研究には、これは欠けがちな視点なんです。
たとえば小林秀雄のドストエフスキー論は、登場人物の近代的自我うんぬんが問題にされますが、宗教的な次元の話は出てこない。これは間違いであると、加賀ははっきり主張しています。我が意を得たりの思い。
日本のドストエフスキー研究が平坦なものになりがちなのは、宗教への理解が浅いからというのが大きいと思います。戦前はともかく、戦後の日本人には特にそれが当てはまるでしょう。
ソ連のドストエフスキー研究にも同じことがいえますね。ただしソ連は宗教音痴というよりも、社会主義のドグマが宗教を圧殺していたことの影響です。
社会主義は理性と科学を信奉する体制であり、宗教はかえりみられませんでした。ドストエフスキーも当時は反動的な作家とカテゴライズされ、あまり人気がなかったらしい。
名高いグロスマンのドストエフスキー伝にしても宗教的な視点はあまり見られず、社会小説としてドストエフスキーを読み解く場合がほとんどです。
ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』が思想ではなく作品の形式だけに焦点を当てるのも、実は当時の社会体制と関係があります。厳しい検閲体制のもとでドストエフスキーの思想を論じるのはむずかしいですから、そのぶん作品の形式を重点的に語ったというわけです。
ソ連からロシアへ:ドストエフスキーの復活
今のロシアでは、ドストエフスキーの地位はまた違ったものになっているようです。
上述のように、ソビエト連邦の時代には、文学研究や教育においてドストエフスキーはある程度の地位を保っていたものの、彼の作品は主に心理的深さや社会批判という観点から読まれていました。
宗教的・神秘的な側面は避けられる傾向にあったんですね。
特に『カラマーゾフの兄弟』のような作品に見られる信仰と道徳の問題は、しばしば形式的に扱われ、宗教的意義は曖昧にされがちでした。
しかし、1991年のソ連崩壊以後、ロシア社会は大きな価値観の転換期を迎えることになります。かつて抑圧されていたロシア正教が復活し、人々の間に精神的支柱を求める動きが強まりまったのです。
この宗教的リバイバルのなかで、ドストエフスキーの作品は新たな意味をもって再評価されるようになります。彼の描く罪と赦し、信仰と懐疑、個人と神との対話といったテーマは、混乱と空虚感に包まれたロシアの人々に強い共鳴をもって迎えられました。
現在のロシアにおいてドストエフスキーは、単なる文学者という以上に、国民的な精神の象徴として位置づけられているようです。
彼の言葉は政治家の演説や公共の場でも引用されることがあり、教育や文化政策の中でも重要視されています。
モスクワやサンクトペテルブルクなどでは、彼の名前を冠した通りや博物館も整備されており、まさに「国民的作家」としての地位を確立していると言えるでしょう。
日本や欧米におけるドストエフスキー研究への逆風
ロシアにおけるドストエフスキーの復活は、ファンからすると嬉しい気持ちになりますが、同時に厄介な事態も引き起こします。
ドストエフスキーが現代ロシアで宗教的・保守的象徴として再評価されていることは、欧米や日本などのアカデミズムにおいて、彼を扱う際の一種の「政治的障壁」として機能しうるのです。
まず、現代の欧米のアカデミズム、とりわけ人文系は、基本的にリベラルないし左派的な価値観を背景にしています。
宗教に対しては懐疑的、あるいは明確に批判的なスタンスを取ることが一般的で、特にキリスト教的・保守的価値観と結びついた思想に対しては警戒感が強い傾向にあります。
そのため、近年のロシアにおけるドストエフスキー再評価の文脈——つまりロシア正教や国家主義、さらにはプーチン体制と結びついた文化的ナショナリズム——に対しては、距離を置く姿勢が見られるのです。
この傾向は、実際のドストエフスキーの思想や作品の価値を歪めるリスクを孕んでいます。
たとえば、『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』に描かれる信仰と懐疑、超越と人間存在の葛藤といった主題を、宗教的真摯さから読み解こうとする試みは、しばしば非主流的、あるいは保守的・神学的とみなされ、学問の場で歓迎されにくくなることがあります。
しかも、ロシアそのものが西側リベラル知識人にとって「自由の敵」「権威主義の象徴」として見られがちな状況では、そのロシアで「国民的作家」として扱われるドストエフスキーにも、無意識的にイデオロギー的な色が付けられてしまう恐れがあります。
とくに2022年以降のウクライナ戦争によって、ロシア文化への警戒や忌避の風潮が強まっていることも、この文脈に拍車をかけていると言えるでしょう。
こうした空気の中では、たとえばドストエフスキーの宗教的・精神的深みを評価するよりも、彼の反ユダヤ的発言やスラヴ主義的傾向を問題視する声のほうが目立ちやすくなります。
その結果、ドストエフスキーを単なる「深刻な小説家」あるいは「近代精神の病理の観察者」として安全な枠に押し込め、彼の核心にある神学的・霊的な問いには触れないという傾向が続いてしまうのです。
われわれ日本のドストエフスキー読者は、この傾向には抗うべきだと僕は思っています。
その他に印象的だったところ
以下、印象的だった内容をいくつか挙げてみます。
・夏目漱石『吾輩は猫である』の入浴シーンはドストエフスキー『死の家の記録』へのオマージュ。
・シュナイダーの『精神病質人格』はドストエフスキー副読本になる。
・夢や無意識を重視した小説家はドストエフスキーが世界初。
・サルトル以降、人物を外面的に描いてはいけなくなった。
・癲癇の天才はドストエフスキーとナポレオンとマホメット。
・ドストエフスキー作品の登場人物には奥行きがあり、この技術を受け継いだのはプルースト、ジョイス、フォークナー。
・ドストエフスキーは地味な脇役を描くのも上手い。
・白痴は最高傑作である。
・イワンだけ顔の描写がない。
・ドストエフスキーの小説はソナタ形式。
・小説家はストーリーから書き始めては駄目。まずは人物を作り上げること。
・ザビエルの死体は腐らなかった。
・ドストエフスキーはニーチェを読んでいた。
・ドストエフスキーはアンチ社会主義の個人主義者。
本書で加賀は、グロスマンのドストエフスキー伝とベルジャーエフの『ドストエフスキーの世界観』を重要書として挙げています。
両書とも絶版状態で手に入りにくくなっている名著。
しかし僕は先日、いずれも古書店で発見しました。しかもどっちも700円だったという。
2冊ともすさまじく面白いので、ドストエフスキーファンの方には中古で探してみることをおすすめします。
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