ドストエフスキー作品の最難関は『悪霊』

ドストエフスキー

ただでさえ複雑な作品の多いドストエフスキーですが、そのなかでもトップクラスの難しさで知られるのが『悪霊』。

「こういうことが書いてある」と一つの視点からまとめるのは不可能に近いと思われます。信仰をテーマに据えた作品にも見えるし、かつての日本で流行ったように政治小説として読むこともできる。

ただ重要なテーマの一つとして「自我の檻から外へ出て実在にふれること」があるのは確かなんじゃないかなと思う。

話の中心にステパン氏とワルワーラ夫人を置くと、この小説は全体像がわかりやすくなります。

ふたりとも実在との接触は失われている人物ですよね。

ステパン氏は世界から遊離し、空想のなかで美と戯れるエリート知識人。ワルワーラ夫人は専制君主タイプで、自我の統制のもとにすべてを管理し閉じ込めようとする、上流階級の知的な女性です。

『悪霊』の人間関係の中心にはこのふたりがいます。主人公スタヴローギンはワルワーラ夫人の息子であるだけでなく、幼少期からステパン氏の教育を受けていました。リーザもダーシャもステパン氏の教育を受けています。シャートフもそう。そしてピョートルはステパン氏の息子です(郵便で捨てられたとはいえ)。さらに流刑人フェージカはステパン氏の下男でした。

ステパン氏の観念性やワルワーラ夫人の専制政治がコアにあって、それが周りに多大な影響を及ぼしている図がわかります。

 

ふたりの事実上の子供が主人公スタヴローギンです。

ふたりから影響を受けた彼が健康に育つことはありえませんでした。実在からの遊離。自我のコントロールのもとにすべてを置こうとする志向。「絶望して自分自身であろうとする」(キルケゴール)次元に達した死に至る病の持ち主がこの主人公です。

その帰結としての根源的な退屈、目的の喪失、実在との接触回復を目指した修行僧的な行動、これらがないまぜになって彼の突飛な行動を形成します。

スタヴローギンはダーシャへの手紙に次のように書きます。

あなたのお兄さん(引用者注:シャートフのこと)が、ぼくにこう言ったことがあります。おのれの大地とのつながりを失うものは、自分の神も、つまり、自分のすべての目的を失う、と。どんなことでも、果てしなく議論することができますが、このぼくから流れでてかたちをなしたのは、否定のみ、どんな寛大さもどんな力もありません。否定さえ、かたちをなしませんでした。何もかもが、いつも底が浅くて、うちしおれている。

(ドストエフスキー『悪霊』亀山郁夫訳)

 

メインとなる登場人物のなかで、例外的に実在にふれたのがダーシャとシャートフだといっていいでしょう(ちなみにこのふたりは兄弟姉妹)。

ステパン氏が最後にシャートフの名前を出すのは偶然ではありません。

「ああ、ほんとうにもういちど生きたい!」異常なほどの生命力をみなぎらせて、彼は叫んだ。「人生の一分一分、一刻一刻が、人間にとって至福の時でなくちゃならない……そうでなくちゃ、ぜひともそうでなくちゃ!そうすることが、当の人間にとっての義務なんです。これは、人間の掟なんです――隠された掟、でも、必然的に存在する掟……ペトルーシャに会いたい……彼らみんなに……シャートフにも!」(前掲書より)

ピョートルの名前が出てくるのは敵であり息子である存在との和解を意味しているとすぐに察しがつくんですが、シャートフが名指しされるのちょっと驚きますよね。ここでのステパン氏は自分の先行者としてシャートフを見ているのだと思われます。

また訳者の亀山郁夫は、ダーシャについてあとがきに次のように書いています。

全体として見るなら、『悪霊』の物語は出発点において、スタヴローギンとダーシャとの禁じられた恋のモチーフを根底にはらんだ、と考えていい。ではなぜ、この「恋」はどこまでも禁じられているのか。それはおそらくダーシャこそが、スタヴローギンの唯一帰ることのできる、原初的ともいうべき愛、限りない受容性のシンボルだからだと思う。ダーシャは、ワルワーラ夫人がついにみずからは体現できなかった、永遠の母のイメージを担いつづけている。

(ドストエフスキー『悪霊1』亀山郁夫訳「読書ガイド」より)

エゴの外部にある実在とふれえているのがダーシャという人物。ラスコーリニコフにとってのソーニャになりえた存在です。しかしスタヴローギンはその邂逅を禁じられ、自我の檻に閉じ込められました。

それにしてもワルワーラ夫人とスタヴローギンが親子であることは異様な説得力があります。ドストエフスキーの家族心理学が炸裂という感じ。

 

物語の終盤、街道へと向かったステパン氏。この街道は自我の外部へと通じる道を表していると考えてよいでしょう。農民たちや聖書売りとの出会いは、実在との接触の回復です。

しかしステパン氏はこの試みを完遂することなく、途中で病死してしまいます。しかもワルワーラ夫人が彼を連れ戻しに来る。

スタヴローギンとダーシャの関係を前もって禁じたのもそうですが、ワルワーラ夫人はエゴ世界の番人のような役割を与えられていると見なしてよさそうです。最後にはスタヴローギンも死を選び、ワルワーラ夫人の専制政治も破綻します。

こうして悪霊につかれたものたちは、えもいえぬ光を指し示しながら全滅するのでした。

ドストエフスキーの小説はなぜか全体として暗くないのが特徴。それはおそらく彼が救世主やあの世の実在を認識しているからでしょう。この世をいくら救いようのないふうに描いても、その外部から光が差し込んでくる。読者はその波動を無意識に感受し、救いの現実性を予感するのだと思います。

 

僕は本書を新潮文庫で1~2回、英訳で1回読んだことあって、今回は光文社古典新訳文庫の亀山訳で読み返してみました。やはり圧倒的に読みやすい。

ただステパン氏の訳し方は新潮文庫の江川卓のほうが好きですね。亀山はフランス語をそのまま引用してカッコのなかで普通に日本語訳します。一方で江川はフランス語の部分をカタカタで訳すんです。

江川のほうがステパン氏の滑稽さというかユーモラスなところが出てて面白いと思います。

亀山は訳文の読みやすさは最高なのですが、解説や読解が妙に浅いというか一面敵というか、いまいち説得力に欠けるのが弱み。『悪霊』の解説ならやはり森有正『ドストエーフスキー覚書』だ最上級だと思います。