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世界一美しい恋愛小説? ドストエフスキー『白痴』

2023年11月22日

世界一美しい恋愛小説とも呼ばれる『白痴』。

ドストエフスキー作品のなかでそんなに人気があるほうではなく、本人も失敗作扱いしていた模様。

しかし根強いファンが多い作品でもあります。ドストエフスキーは苦手だけど白痴は読めたという人も少なくない印象。それはこの作品の特殊性に起因すると思われます。

基本的にドストエフスキー作品の登場人物は大きく2つのタイプにわけることができます。

脱社会的次元にまで行き着いた宗教的人間と、社会のなかに埋め込まれた俗人です。

さらに宗教的人間のカテゴリーが2つにわけられ、一方は神を求める肯定的存在(アリョーシャやソーニャやチーホン)、もう一方は神を否定する否定的存在(イワンやラスコーリニコフやスタヴローギン)になります。

後者が俗人とまったく違う存在である点に要注意。神を否定する存在と肯定する存在は、方向性は逆ですが、脱社会的な存在である点は同じです。したがって両者は同じ水準で対話をします。

 

ドストエフスキー作品で主役を演じるのはこの宗教的人間のなかの2タイプのバトルです(大審問官、ソーニャとラスコーリニコフ、チーホンとスタヴローギンなどなど)。

俗人たちにはあまり光が当たらず、せいぜい前座のように場を盛り上げる役割か、道化を演じて宗教的人間の重要性を際立たせるにすぎないことがほとんど。

しかし『白痴』という作品はドストエフスキーにしては宗教的次元が希薄です。登場人物の多くが俗人タイプなんですよね。俗界の出来事にスポットライトが当たり続ける印象があります。

 

そして一応の例外が主人公のムイシュキン公爵です。

『白痴』はムイシュキンという宗教的人間が俗人の世界と交わり、そこに激しい化学反応を生じさせる物語だと考えることができます。宗教的人間同士のバトルが主題になりがちなドストエフスキー作品において、構成が変わっていますよね。

『白痴』の主題は脱社会の次元まで行き着いた宗教的人間同士の対話でなく、むしろアウトサイダーないし辺境人(マージナルマン)のムイシュキンと社会に埋め込まれた俗人たちの邂逅です。

ただしムイシュキンも例えばゾシマ長老のような確固とした人物ではないですが。ムイシュキンが世間に化学反応を引き起こすように、世間のほうもムイシュキンに対して作用を及ぼし、ムイシュキンのなかに動揺が生じます。

とはいえとりあえずはムイシュキンを『白痴』のなかで例外的な宗教的人物と見なすのが自然だと思いますし、そう捉えればこの作品の流れもすっと理解できます。

 

『白痴』というタイトルもこの観点から見れば腑に落ちます。

白痴は「馬鹿」みたいな意味の言葉ですが、ムイシュキンが知力に乏しい人間かというとそうでもないですよね。じゃあなんで白痴なのかというと、これは俗界のルールに無知という意味なんですね。

俗界の掟のことを何も知らない「美しい人間」がその俗界のただ中に投げ込まれ、ハチャメチャな帰結をもたらしていく。

すべてを肯定するムイシュキンは、俗界に適応することができません。

たとえばアグラーヤとナスターシャを同時に肯定することが可能なムイシュキンは、ロゴージンをも肯定するにいたります。

こうして宗教的次元での原理が低次の俗界という文脈でエラーを起こしフリーズしてしまう。それが『白痴』のストーリーになっています。

 

実際、宗教的人間がこの世にどう適応するのかは難しいテーマです。

たとえば道元は日常の些細な雑事にいたるまで事細かにルール化していたことで知られます。

これは宗教的原理から導き出されたのではなく、むしろ宗教的原理からはいかなる俗界用のルールをも導き出せないことを知っていた道元ならではのプラグマティックなアプローチなんですね。

色即是空空即是色ですべてを肯定していたのではにっちもさっちもいかなくなりますから。めんどくさいから全部かっちりルール化しておけというわけです。

おそらくユダヤ教やイスラム教の初期の指導者にも道元と似たようなプラグマティズムがあったのだと思います。信仰からは俗界用の行動を導き出せない。じゃあいっそのこと最初のうちにぜんぶルール化しておけと。

Left Caption
なお神はこのような矛盾やエラー、悲劇的結末のすべてをも包容し肯定している模様(神学の問題ではなく現実の問題)。これが神や宗教、この世界の(われわれにとっての)おそろしさです。

 

ムイシュキンは無限性の絶望者か

ドストエフスキーいわくムイシュキンは「もっとも美しい人間」として書いたとのこと。

しかしムイシュキンを見て美しいと感じる人はあまりいないのではないでしょうか。むしろイライラしてくる人もいると思う。人によってはムイシュキンを悪人であると判断するほどです。

いずれにせよムイシュキンには、例えばゾシマとかアリョーシャのような説得力がないですよね。

キルケゴールの言葉を借りれば、ムイシュキンは有限性を欠いた無限性の絶望にある人物といえなくもないのかもしれません。

キルケゴールは『死に至る病』のなかで、無限性と有限性の対概念および可能性と必然性の対概念をもちいて、絶望を4つのパターンにわけました。

・無限性の絶望(有限性を欠いた絶望)
・有限性の絶望(無限性を欠いた絶望)
・必然性の絶望(可能性を欠いた絶望)
・可能性の絶望(必然性を欠いた絶望)

無限性と有限性および必然性と可能性がそれぞれ中道的なバランスを取ったうえで神のもとに自分自身の根拠を置いている、これがキルケゴールのいう信仰者(絶望していない人間)。

たとえばゾシマやアリョーシャはいかにもこの信仰者に当てはまる感じがしますよね。しかしムイシュキンがその意味での信仰者なのかというと微妙です。

むしろ有限性を欠く無限性の絶望者なんじゃないかと思えなくもない(ステパン氏などのほうがもっときれいに当てはまるとは思いますが)。無限定な理想や想像力のなかへとさまよいでて、自己が希薄化し、有限の世界のなかで破滅にいたるというわけです。

 

『白痴』は10年くらい前に新潮文庫で読んだことがあるきりでしたが、今回は亀山訳で再読してみました。

かなり読みやすかったので、今から読む人はこのバージョンでいいと思います。

ただし解説は読まなくていいですね。悪い意味で学者的というのか、細かい小ネタばかりにこだわって全体像や本質が逆にぼやけてきますので。

本作の解説なら森有正『ドストエーフスキイ覚書』が一番しっくりくると思います。

なお『白痴』といえば黒澤明による映画化作品のほうも有名。Amazonのプライムビデオに収録されたので、今なら簡単に見ることができます。

文学の本

Posted by chaco