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語りえぬものは2種類ある 永井均『ウィトゲンシュタイン入門』

2023年11月22日

ウィトゲンシュタインの入門書でもっともとっつきやすいのはどれか?

個人的には永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)を挙げたいと思います。久々に読み返してみたらやっぱり面白い。

前期の『論理哲学論考』、中期の文法の哲学、後期の言語ゲームはがっつりと解説され、晩年の『確実性の問題』もちょこっとだけ取り上げられます。伝記的なエピソードもさらっと記述あり。

永井均といえばきわめて独特な哲学者であり、本書でも序言でいきなり永井節が炸裂しています。

哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなのである。重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否か、にある。優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。このことはどんなに強調してもし過ぎることはない。なぜなら、すべての誤解は、哲学者の仕事を既成の問題に対する解答と見なすところから始まるからである。(永井均『ウィトゲンシュタイン入門』)

とはいえただ強引で独りよがりの本なのかといえばそんなことはなく、むしろ解説は明晰でわかりやすいです。そして永井の著作である以上、読み物としての面白さも保証つき。

新書ということもあり入手もしやすく、読むのも楽なので、これから入るのが最適なんじゃないかなと思いますね。

語りえぬものは2種類ある

ウィトゲンシュタインといえば『論理哲学論考』で述べた「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」という文言が有名です。

では、語りえぬものとはなんなのか?

永井はこれを大きく2つに分類しています。

一つは超越論的なもの(論理や文法や生活の形式)。もう一つは超越的なもの(倫理や宗教的な問題)

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ちなみに永井によると第一の語りえぬものと第二の語りえぬものは「私」を媒介として結合されているそうです。

ウィトゲンシュタインの哲学は前期、後期と変転していきます。しかし永井によると、超越的な語りえぬもの(倫理や宗教)についての見方はずっと変わりませんでした。ウィトゲンシュタインの哲学において生成変化していくのは世界の形式である超越論的な語りえぬもの(論理、文法、生活の形式)のほうだといいます。

したがってウィトゲンシュタインの哲学を問題にするとは、この後者の部分の変化や進展を追いかけていくことを意味します。それが本書の大まかな構成。

ざっくりといえば前期は論理の形式が、中期は文法の形式が、後期は生活の形式が超越論的な語りえぬものとして機能します。

とくに強烈なのは後期の哲学(言語ゲーム論)で、これによりウィトゲンシュタインは中期までの自分を含めた西洋哲学全体と袂を分かち、まったく新しい次元の哲学へと突入していきます。

逆にいうと前期の『論理哲学論考』はカントやショーペンハウアーの枠組みでも理解できますし、中期の思索はフッサールの現象学を追い越してはいません。

 

ちなみにウィトゲンシュタインは自身の哲学について「書かれた部分」と「書かれなかった部分」があるといい、後者のほうが重要だと公言していました。書かれなかった部分というのは倫理や宗教などの超越的な問題ですね。

ここを勘違いしたのが論理実証主義の人たちで、彼らはウィトゲンシュタインからの影響を公言しながらも、語りえるものを語ることだけに価値があり語りえぬものは無価値であると考え、当のウィトゲンシュタインから厳しく批判されたのでした。

大きな潮流をなすウィトゲンシュタイン系の現代哲学者には、ウィトゲンシュタイン本人よりも、論理実証主義者たちに気質的に似ている人のほうが多い印象があります。

個人的にこれは残念なところ。だからウィトゲンシュタインの流れにつらなる言語哲学ってあんまり追いかける気になれないんですよね。

 

なお本書の次に読むなら鬼界彰夫の『ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡 1912-1951』(講談社現代新書)をおすすめします。

ウィトゲンシュタインのおすすめ入門書については以下の記事も参照のこと。

哲学の本

Posted by chaco