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ラマナ・マハルシ『あるがままに』20世紀最大の覚者かく語りき

2023年11月22日

ラマナ・マハルシといえば、インドを代表する聖者のひとり。

エックハルト・トールの『ニューアース』では「現代でもっとも偉大な覚者のひとり」と言われています。あのパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』にも後半ちょこっと登場。

ラマナ・マハルシは著作を書き残してはいませんが、自分のもとを訪れた西洋人や弟子を相手に行った対話が記録・出版されています。

本書『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』は、英国人デーヴィッド・ゴッドマンによってマハルシの言葉が記録された有名な本。非常に評価が高く、17か国語に翻訳されている模様。

日本語の訳文はきれいで読みやすいです(この手の本は質の高い日本語訳に恵まれる傾向がある)。

ただし内容は難しい。僕も最初読んだときはついていけなくて、途中で投げ出してしまいました。しかし2回目に読んだときその尋常ならざる威力に気づき、すっかり愛読書になってしまったという次第(この手の本ではよくあるパターン)。もう4~5回は読んでると思います。

では本書で語られるラマナ・マハルシの教えとはどんなものか。真我探究とよばれる一種の瞑想方法がメインになります。

ラマナ・マハルシの真我探究(ヴィチャーラ)

ラマナ・マハルシの瞑想法は真我探究として知られます。

「わたし、わたし」と自分自身の根源を見つめていって、自我の非存在に気づき、大いなる真我のなかに溶け込んでいくという方法。

理論的に説明するのはたやすいですが、それを実際にやってみせるのは神業で、本書でも多くの西洋人たちが「わかっちゃいるけどできないんです」とラマナに教えを懇願しています。

マハルシは次のようにいいます。

無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールをかけてしまう。ただ誤った知識である無知のヴェールを剥ぐことだけを試みればよい。誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。この偽りの同一視がなくならなければならない。そうすれば、ただ真我だけが残る。(『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』福間巖訳)

この「私」はどこから沸き起こるのだろうか?内面を深く探りなさい。そうすれば、「私」は消え去る。これが智慧のなす業である。心がたゆまずその本性を調べるとき、心といったものは存在しないことが明らかになる。これこそがすべての人にとっての正道である。(同書より)

あなたは純粋な「私」と、「私」という想念とを区別しなければならない。後者は単なる想念であるため、主体と客体を知覚し、眠り、目覚め、食べ、考え、死に、そして生まれ変わる。だが、純粋な「私」は純粋な存在、永遠の実在であり、無知や想念の幻想から自由だ。(同書より)

悟りを開いたと自称する導師(ジニャーニ)が本物の覚者かどうかどうやって見極めればいいのか?この難しい問題について、マハルシは次のように言っています。

ジニャーニの心はジニャーニにしか知ることができない。別のジニャーニを知るためには、自分自身がジニャーニにならなければならない。しかしながら、聖者の臨在のなかで満たされる心の平和が、真理の探求者にとって聖者の偉大さを理解することのできる唯一の手段と言えるだろう。彼の言葉や行為あるいは容姿が彼の偉大さを表すことはない。(同書より)

崇拝については次のように言っています。

いかなる執着もなく、ただ真我のなかだけにとどまった純粋な存在状態、それが沈黙である。その沈黙として、永遠に、あるがままに在ること、それが真の崇拝である。(同書より)

超能力(シッディ)については次のように言います。

シッディを見せびらかすには、それを認めてくれる他の人たちがいなければならない。それはつまり、シッディを誇示する人にジニャーナ(真理の知識)はないということである。それゆえ、シッディには価値がない。ただジニャーナを得ることだけを目的とするべきである。(同書より)

人々はシッディよりもはるかに奇跡的なものごとをたくさん見ている。だがそれらには驚きもしない。なぜならそれらは毎日起こっているからだ。(同書より)

輪廻転生については次のように語っています。

無知が存在する限り、輪廻転生は存在する。本当は、輪廻転生などまったく存在しない。いまも、いままでも、そしてこれからも。これが真理である。(同書より)

一神教的な人格神については次のように言います。

宇宙の至高の創造者であるイーシュワラ、人格神は本当に存在している。だがこれは、まだ真理を実現せず、個我の実在性を信じている人びとの相対的な見地から見たときに限った真実である。賢者の絶対的な見地からすれば、無形の一者である、個我を超えた真我以外には、他のどんな存在もありえない。(同書より)

イーシュワラ、神、創造者、人格神は消え去るべき最後の非実在の姿である。唯一、絶対的存在のみが実在である。それゆえ、世界だけでなく、自我だけでなく、人格神もまた非実在なのである。(同書より)

神については次のように語っています。

誰もが真我を知っている。だが、明確には知られていない。あなたはつねに存在している。その「在ること」が真我である。「私は在る」(I AM)が神の名前である。

 

人格神についてのロジックは非常に啓発的かつ衝撃的ですよね。

人格神は存在しない。だが、世界や自我が存在する程度には存在している。本当は、世界や自我など存在しないのと同様に、人格神もまた存在しない、と(輪廻転生についても同様のロジックが展開される)。

神々に教えを垂れるブッダの姿が仏典のなかに描かれていますが、あれってこの境地を意味したものなのかもと思えてきます。

本書を補助線にすると、ブッダの言っていることへの理解が深まると思いますね。こういうことを言っていたのかというふうに…

想像をたくましくすると、人類っていつか偽りの覚醒段階に悩まされる時代を迎えるかもしれないですね。物理学の発展で、あの世とか霊とかの存在を客観的に納得できるようになる。ただの作り話じゃなくて本当だったんだと衝撃を受ける。でもその衝撃が強すぎるあまり、人格神的なレベルに縛り付けられてしまい、真我の実現は遠のいてしまう、みたいな。

 

また深い眠りをメタファーとして多用するところも本書で印象的なところです。

深い眠りのなかで、僕たちの通常の意識は停止しています。しかしその眠りのあいだも僕たちの存在は持続している。その持続しているもののほうが僕たちの本性に近いというんですね。思考や感情は自分自身ではないと。これまた啓発的かつ衝撃的な言葉です。

ラマナ・マハルシの本ではTalks(トークス)と呼ばれる対話集も海外で有名です。これの全訳も出ています(全3巻)。

訳者は同じですが訳文のトーンはだいぶ違います。『あるがままに』が厳かな「である」口調だったのに対して、トークスでは「ですます」調の柔らかい文体で訳されています。

個人的には『あるがままに』の「である」調のほうが合ってる気がするんですよね。

その他のおすすめ書籍はこちら↓

宗教の本

Posted by chaco