デリダのなかのユダヤ人 井筒俊彦『意味の深みへ』【書評】

2020年3月1日

日本のみならず広く東洋哲学をも代表する巨人・井筒俊彦。

おもしろいことに、井筒は終生、フランスの哲学者ジャック・デリダに関心を寄せていたといいます。

井筒のデリダ論を収録したのがこの『意味の深みへ』。2019年の3月に岩波文庫から発売されました。

岩波書店は最近、ものすごい勢いで井筒を文庫化していますね。

 

井筒はデリダのなかにユダヤ人をみる

本書に収められたデリダ論は、タイトルを「デリダのなかの「ユダヤ人」」といいます。

井筒は、デリダのなかにユダヤ的なものを嗅ぎ取る。いったいデリダのなにがユダヤ的なのでしょうか?そもそもユダヤ的なるものとはなんなのでしょうか?

ユダヤ的なるものとは、ひとことで言えば彷徨です。そして永遠の彷徨がまねきよせる終末への憧れ。この二つがキーワードになります。

 

またユダヤ的なものは、ギリシア的なものと対置されます。ギリシア的なものとは、いわば定住でしょうか。これはデリダ自身の用法でもあり、デリダは終生ギリシア的なものとの対決を試みていました。

ちなみにデリダによると、ヨーロッパ哲学はフッサールとハイデガーというふたりの「ギリシア人」によって支配されています。

 

脱構築は砂漠の彷徨

なぜ彷徨と終末論がデリダの特性になるのか?考えるべきはデリダの行う脱構築です。

脱構築とは、エクリチュール(テクストや音声などの物質的な媒体)と深層の意味とのあいだにあるズレを見定め、同一のエクリチュールから異なる深層意味を導き出す作業のことをいいます

なんでも勝手に言っていいということではありません。つねに論理は一貫している必要がある。あるテクストなり音声なりから、一貫する意味体系を、さまざまに導き出す。ある時はこういう意味体系、またある時はああいう意味体系というふうに。

これが脱構築です。ちなみにこの技は、ハイデガーが哲学史を解釈するときのやり方に似ていますね。

このように脱構築とはエクリチュールと深層意味とのあいだの絶えざる往復なのです。終点はありません(ヘーゲルであれば絶対知に到達するところですが)。唯一の定まった正解は存在しない。エクリチュールからは、無限の意味が導き出されるばかりです。

終わりのないこの運動、これを井筒俊彦は「砂漠の彷徨」と呼びます。この当て所もない彷徨、これこそがデリダのユダヤ性です。

そしてここからもう一つのユダヤ的特性が出てきます。終わりのない彷徨は、終末への憧れを惹起する。ユダヤ的な終末論がそれです。

デリダは終生、終末論に異様なほどの関心を見せていました。井筒はこれを脱構築の彷徨と結びつけ、デリダにそなわるユダヤ的なものの現れだとみなすわけです。

 

デリダからの手紙

それにしても井筒がデリダに関心を寄せていたのは意外でしたね。その理由に関してもいくつか言及はありますが、いまいち腑に落ちるものがありません。

ちなみに井筒とデリダのあいだには直接のやりとりもありました。本書の巻末にも、デリダから井筒へ宛てた書簡が収録されています。

書簡といっても例のデリタ文体で書かれているため読みにくく、僕はざっと目を通しただけで済ませてしまいましたが。興味のある人は熟読してみてはいかがでしょうか。