後期ウィトゲンシュタインはなぜ読みにくいのか【2つの理由】
哲学の本がやたら難しいことは誰しもが知っています。
僕が思うに、中期以降のウィトゲンシュタインの文章は哲学独自の難解さがもっともわかりやすく出ているのではないでしょうか?
文章は普通の語彙ばかりなのに、何を言っているのかさっぱりわからない。そもそも問題を共有できない。話についていこうとすると、純粋に哲学的センスが必要になってくるんですよね。
哲学の難解さという話になると、よくハイデガーとかが例に出されますよね。『存在と時間』あたりから文章が引かれ、なんだこりゃわけわからんみたいな。でもその場合、ハイデガーの独特な用語や言い回しに面食らっているだけだったりします。いわば外国語が読めないというのと同じ経験。
これが誤解を生んで、「普通の文章で書かれていさえすれば哲学なんて難しくないはずだ」と思ってしまう人もいるんですよね。
しかし実際にはさにあらずで、普通の文章で書かれていても、哲学的議論は難解で、わけのわからないものになりがちです。中期~後期のウィトゲンシュタインを読むとそれを思い知るんですよね。
哲学の難しさが話題になったときは、ハイデガーとかじゃなくて、後期ウィトゲンシュタインの文章を引用するようにしましょう。
ウィトゲンシュタインの文章がわかりにくい理由2つ
とはいえ中期以降のウィトゲンシュタインの難しさは単に哲学的センスの問題だけでなく、著作の構成が独特すぎるせいでもある模様。彼はパスカルやニーチェのようなアフォリズムで書くのですが、その構成や配列の仕方が異様なんですね。
鬼界彰夫は『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(講談社現代新書)のなかで彼のテクストの特徴に触れ、その適切な読み方として次の2点を挙げています。
・各断章を内容的に関連のあるまとまりにわける
・各考察の文脈を同定する
なぜこれらのアプローチが必要になるかというと、まず、ウィトゲンシュタインは単一のテーマについて直線的に書くことをしません。何かを考えるとき、関連する複数の主題(言語、自我、数学の基礎など)を同時に考察し、しかもそれを交互に書きつけていくのです。
たとえば言語についての思索をA系列、自我についての思索をB系列としましょう。ウィトゲンシュタインはAとBを同時に考える癖をもっているというんですね。
普通なら第1章でAを扱い、第2章でBを扱うみたいな構成をすると思うんですが、ウィトゲンシュタインの場合は同時にそれらを扱っていきます。その結果、彼のアフォリズムは次のような構成になります。
A1→A2→B1→B2→B3→A4→B4
この独特な思考と著述の癖を知らずにウィトゲンシュタインのアフォリズムを読むと、話題があっちこっちに飛んで、ただでさえわかりづらい内容がさらにチンプンカンプンになってしまうというわけです。
したがって各断章を内容的に関連のあるまとまりに分けて読んでいくことが必要になります。
これだけではなく、ウィトゲンシュタインのアフォリズムが意味不明になる原因はもう一つあります。
思索を書き連ねた草稿を最終形にまとめあげるときに、元となる文脈から強引に引き剥がして、パッチワークのように断章を並べる傾向がウィトゲンシュタインにはあるというのです。
その結果読者はその文章の文脈がわからずに途方に暮れ、あたかも宣託のように降されるアフォリズムの前に立ち尽くすことになるわけです。
これを避けるためには、各考察の元となる文脈を同定し、そこで理解を試みる必要があります。
鬼界彰夫によると、ウィトゲンシュタインの難解な考察のほとんどは、元の文脈に当てはめて考えてみると意味が明瞭になるとのこと。意味明瞭といってもあくまで普通に読む場合に比べてですが。
ウィトゲンシュタインのおすすめ入門書については次の記事も参照のこと。