市民社会とは何か?【アリストテレスからヘーゲル、ハーバーマスへ】
「市民社会という概念についてわかりやすく説明してください」
こう問われて答えられる人はほぼいないはずです(私には無理)。それが無理難題になるほどの複雑な歴史と、奥深い意味合いをこの概念は秘めているからです。
この市民社会という概念をたどることで、西洋および近代日本の社会・社会思想の歴史を理解させてくれる新書が『市民社会とは何か』(平凡社新書)。
ずっと前から気になっていた本。読んでみたら評判通りの良書でした。
これほんとに新書なのって感じの構成ですが(引用がやたら多いなど)、型がカッチリしているので逆に読みやすいです。著者の主張を汲み取りやすい。
以下、内容をざっくりと振り返っておきます。
西洋における市民社会概念の歴史
市民社会という概念はいつから使われ始めたのか?
実は16世紀に、アリストテレスの『政治学』に登場する「国家共同体」という趣旨の単語を訳すときに、初めて市民社会という言葉が使われます。
その用法もそのまま国家共同体を意味するもので、われわれが市民社会と聞いたときに思い浮かべるものとはだいぶ違ったんですね。
しかもこの用法は18世紀にいたるまで存続し、ホッブスやロックもこの使い方を踏襲しています。したがって彼らが市民社会といいだしたら、国家共同体のことをイメージする必要があるわけです。
その後もスミスやルソーなどが新たなニュアンスをこの概念に追加していきます。野蛮に対する文明性だとか、商業的な性格だとか。
しかし市民社会の概念が明確に生まれ変わったのは19世紀、ヘーゲルの手によってでした。
ヘーゲルはスミスのいう文明化した商業社会の意味合いを市民社会概念に込めたうえで、これを国家から区別して独自の領域として設定したのです。要するにここで、国家とは別の社会という領域が誕生したというわけです。
社会学とか当然のように社会について語っていますが、それもヘーゲルによる概念発明をベースにして初めて可能になったのですね。
ヘーゲルは、欲望渦巻く利己的な市民社会を国家が調整する(セーフティーネットと再分配)という考えを打ち出しました。これが福祉国家の原型です。新自由主義で動揺しているとはいえ、基本的には現代世界もこのヘーゲルの枠組みでやっています。
そしてマルクスがヘーゲルの用語法をそのまま引き継ぐことで、この概念の影響力は決定的になります。マルクスは異常な影響力をもつ思想家でしたから。
やがてマルクスは市民社会を資本主義社会と呼ぶようになりました。われわれからしたらこれが一番わかりやすいですよね。ヘーゲル的な文脈で市民社会という言葉を聞いたら、資本主義社会をイメージしておけばオーケーです。
この市民社会という概念、現代の西欧ではまた違った意味合いをもちます。
グローバルな資本が各国の社会共同体を空洞化させていく状況にあって、それへの対抗拠点のような意味合いで市民社会という言葉が使われ出したのです。
ハーバーマスのいう「生活世界」みたいなニュアンスですかね。マルクス主義のような革命的野心はありません。
注目したいのは、新自由主義における市民社会論の両義性について著者が注意を呼び掛けている点。
資本や国家が頼りにならないから自分たちでなんとかしよう。このような態度が市民社会運動につながっているわけですが、それがシステム側に利用される可能性があるというんですね。
「あーこの人たちほっといても自分でなんとかするな。なら社会福祉とかもう要らんやろ」。このような展開になってしまうとそれはそれでまずいんですよね。市民社会の働きが、新自由主義システムの共犯者として機能してしまうわけです。
共同体を強くすることは現代の課題ですが、バランスを注視していく必要もありそうです。
近代日本における市民社会概念の歴史
日本における市民社会概念は、西洋とはまた違った経緯をたどりました。
カギとなったのはマルクス主義の講座派です。
講座派といえば二段階革命論で有名ですよね。明治維新は不完全なブルジョア革命だ。社会主義を達成するためにはまず完全なブルジョア革命を起こす必要がある、と。
これが市民社会という概念にも影響してきます。日本には資本主義はある、だが市民社会がない。このようなロジックが生まれるのです。
要するに、日本が達成すべきモデルとして西洋の市民社会を理想化したわけですね。
その後は高度成長だとかソ連の崩壊だとかがあって上記のような市民社会論は退潮。
現代日本では別のニュアンスで市民社会概念が使われています。
グローバル資本によって共同体が空洞化。社会の再建をしなくてはならない。このような資本への対抗という文脈で市民社会論が盛り上がってきます。
これ現在のアメリカやヨーロッパと似たような現象ですよね。幸か不幸か、日本は初めて欧米と市民社会概念の文脈を共有できるようになったというわけです。
ということは、欧米の市民社会論についていわれていた両義性も、やはり注視する必要があります。