長谷川宏の丸山批判『丸山眞男をどう読むか』【書評】

2021年2月8日

長谷川宏の『丸山眞男をどう読むか』(講談社現代新書)を読みました。

長谷川宏はヘーゲルの翻訳で有名な人ですね。この本は手に入りにくくなっていますが、このあいだ古本屋でたまたまゲットしました。

本書を読むと長谷川の印象が変わります。翻訳や解説だけでなく、思想を生きようとしている人だとわかるのです。

長谷川宏というと、あまり大したことないというイメージをもってる人が少なくないのではないでしょうか?ヘーゲルの翻訳と一般向けの解説だけの人だろうというふうに。

しかしそれは誤解なのですね。本書を読むと長谷川の強靭な思想性に気づきます。

 

丸山眞男を批判する本

この『丸山眞男をどう読むか』、一言でいえば丸山眞男を批判する本です。

どのように批判するのか?丸山は民衆とつながれなかった象牙の塔のエリートだ、という論調です。

それだけならよくありがちなのですが、長谷川は丸山の論理を逆手にとって批判するところがポイントです。

つまり、「丸山はよく普遍性というが民衆にまで届かない普遍性は真に普遍的とはいえない」というふうに。

あるいは「民衆の動員が欠かせないリベラリズムを標榜するのなら民衆に届かない言葉を語っているだけでは失格だ」というふうに。

このへんは西洋思想そのものへの批判にも通じうる論点だと思います。

 

日本近代小説に精神の近代化を見る

日本の近代文学を肯定的に評価するところも印象的です。それも、私小説に近代性を見るという行き方での評価なのです。

丸山は日本の近代文学を批判しました。そこには政治性のかけらもなく、したがって近代的ではない遅れた文学だ、というふうに。この見方はスタンダードなものです。

しかし長谷川はそれを批判します。

長谷川によると、明治の近代システムに参加したものたちに近代意識は見られず、むしろそこから落ちこぼれ、個の世界に閉じこもった小説家たちに精神の近代化が見られるというのです。

権力や制度にべったり依存する人間ではなく、そこから離れ自分だけの世界を育てようとする文学者に、近代的な個の自立を見ようとしているのですね。

そして文学者と民衆のつながりが、日本における精神の近代化への歩みを表していると考える。

これは今まで聞いたことのない考え方でした。

 

それに論の進め方がどことなくヘーゲル的ですね。弁証法的な往復運動が見られます。

ヘーゲルの翻訳と解説だけでなく、自らその思想を体得し、そして応用しているのだなと理解できます。

 

東浩紀に似てる気がする

図式化すると、丸山というのは西洋のモデルを持ち出してきて、伝統的な日本のシステムを断罪する行き方をするんですね。

それに対して長谷川は、そうやって日本人が生きる現実を断罪するだけでは何も変わらないのではないかと言う。むしろ、日本人の生きてきた具体的な現実を、新たな思想を生み出すための潜在的な場として捉えようとします。

 

また長谷川は口先だけでこういうことを言っているのではなく、彼の日常そのものがその思想の実践になっています。

長谷川はアカデミズムの人間ではなく、塾を経営しながら一般民衆と関わりつつ、同時に哲学の研究を進めているという、異色の知識人ですから。

 

こうして見てみると、いろいろな面で東浩紀を思わせるところがありますよね。この二人かなり似ているんじゃないだろうか?

さらに遡れば、その系譜には吉本隆明が、さらには本居宣長がいるのかもしれないですね。

 

丸山眞男の入門書としても読める

この『丸山眞男をどう読むか』、単に丸山を批判しているだけでなく、丸山の業績を時系列順に解説した本でもあります。

したがって、丸山の入門書としても読めます。


 

丸山本人の著作を読みたいのなら、平凡社ライブラリーから出ている丸山眞男セレクションがおすすめです。

本書で参照される主要論文もだいたい収録されています。

岩波文庫からも色々出ていますが、最初におすすめなのは『政治の世界』。そっけないタイトルに反して、読みやすい文章が多いです。