2024年6月30日
スピリチュアリズムのバイブルとも呼ばれる名著、ステイントン・モーゼズの『霊訓』。
世界三大霊訓の一つとしても名が挙がります。
モーゼズ(1839-1892)はイギリスの超大物スピリチュアリスト。かのSPRの創設にもかかわり、副会長をつとめています。
『ベールの彼方の生活』の著者オーウェンと同じく、もともとは国教会の牧師でした。
やはり初期のうちはキリスト教の教義に従順であり、スピリチュアリズムの運動を完全に無視していたといいます。
変化が起きたのは、主治医の奥さんにすすめられて降霊会に出席したときのこと。
これがきっかけになって、モーゼスの身の回りにさまざまな霊的現象が発生するようになります(シルバーバーチの霊媒も同じようなルートをたどったことが思い起こされる)
もっとも重大な現象は自動書記でした。インペレーターと名乗る霊が統率する49名から成る霊団がメッセージを送り、モーゼスがそれを記録するという活動がはじまります。
メッセージの中心は現在のキリスト教への批判でした。既成宗教がいかに歪められているかを指摘し、そのかわりにスピリチュアルな真実を提示していくという内容。
当然、元牧師のモーゼスは内容を受け入れられず、随所に反対意見を書き込みます。
それに対してまた霊団からの批判的応答が届き…というふうに、モーゼスの『霊訓』は白熱した宗教的議論になっているのが特徴。
以下、とくに印象に残ったシーンをいくつか紹介してみましょう。なお日本語訳は近藤千雄のものを使用させていただきます。
なお他の霊訓の記事はこちら。
魂の成長、および善と悪について
これはけっこうハッとする発言だと思う。
なんとなく、死んであの世にいったら本当の自分が目覚めるような感覚があると思うんですよね。
しかしインペレーターによるとそれは違うと。霊性の上昇も、いわば「習慣が織りなすもの」だと言うんです。
背後霊について
なぜ死刑制度が害悪なのか
確かに、あの世や転生の全体像を考慮すれば、死刑制度は非合理的といえます。
死刑制度を支持する時点で、そのひとが唯物論的な迷信にとらわれていることがわかってしまいますね。
夫婦の絆について
これを聞いて安心する人は少なくなさそう。
夫婦だけでなく、あらゆる家族関係に当てはまる話ですね。
神について
われわれ現代日本人からすると、至極まっとうなことを言っているように聞こえると思います。
しかし当時のモーゼスはイギリス国教会の教義を信奉していた人間。だからインペレーターの説く神や啓示の教えと衝突する場面が多々あるんですね。
それが本書の見どころのひとつになっています。
啓示について
啓示というのは要するに神や霊からの知らせのこと。今風にいえばチャネリングによってもたらされるメッセージです。
・神からの啓示に終わりはない
・啓示は人間という通路に媒介されているので必ず歪みがある
・啓示が正しいかどうかは理性によって判断せよ
聖書について
啓示と神の観念について
それは時代や霊媒の限界を超えることはありえないと説かれます。
神の観念は人間がこしらえたものだ、という考えがあります。ある意味では、そしてある程度は、それは当たっているということ。
とはいえ神や宗教を「根拠のないフィクションだ」とまで見なすようだと、それ自体が不健康な迷信になってしまうのですが。
悪霊について
自ら悪霊を招くような悪しき生き方をしているのでなければ、悪霊やら低級霊やらに取り憑かれることはない、と明言されています。
メルキゼデクについて
メルキゼデクはイエスに連なる系譜の最重要人物。
逆にアブラハムは霊界から見れば脇役にすぎないと説かれています。
なお、聞き手がキリスト教徒のモーゼスなのでこの系譜が解説されていますが、聖書以外の系譜にも多くの霊的存在がいたとインペレーターは注意しています。
モーセについて
モーセは実在し、出エジプトも本当にあったこととして語られています。
そしてモーセの後ろにはメルキゼデクの霊がいたと。また、モーセも死後に霊として地上に戻ったようです。
モーセ五書について
今の聖書は、ペルシア帝国の支配を受けていた時代に、「モーセ五書」をコアとしてまとめられたものです。それを指導したのがペルシア帝国の高官エズラでした。
やはりフィクションが多い模様。
ただしモーセの十戒は実在したものとして本文中で解説されています。メルキゼデクらの霊団がモーセにそれを授けたと。
もちろん十戒はプラグマティックな性質のものであり、その時代のその場所でのみ効果を発揮するもの。後世の人間が文字通りにありがたがる意味はないと指摘されています。
神の観念の発達について
・啓示はそれを受ける人間の精神レベルに制限される
・人間の精神レベルが上がれば質の高い啓示が可能になる
・だから人間の進歩にしたがって神の観念も発達していく
・古き野蛮な時代の神観念をいつまでも有難がるのは無意味
これは凄く説得力があります。きわめて重要な発言。
インドの哲学・宗教が他の地域に与えた影響について
インドにマヌという名の哲学者がいたことは初めて聞いた気がする。
エジプトの宗教について
モーセの教義もエジプトの宗教から借用したものばかりだったといいます。
そういえばピタゴラスやプラトンもエジプト文明から大きな影響を受けていたんですよね。当時の地中海世界はエジプトが中心地であり、ギリシアは辺境にすぎなかった。
とはいえ宗教的にはやはりインドが先達で、エジプト人はそこから影響を受けたそうです。
エジプト宗教はインドへのある種の反動であり、精神的・瞑想的な方向を極めたインド文明に対して、エジプトでは物質的・日常的なもののなかに神を見出すモードが発達しました。
生活のすべてが宗教の一環としてあったエジプト人の世界を、インペレーターは称賛しています。
イエス・キリストについて
イエスは一般民衆とは和やかな関係にあったようです。
しかし聖書にはそのような記述が欠けている。インペレーターはそこに憤っています。イエスと敵対したエリート知識人たちのことばかりが書かれていると。
なおイエスは幼少期にエジプトに退避していたとインペレーターは述べています。
イエス・キリストの磔刑について
イエスの磔刑は、本人にとっても霊界にとっても、予期せぬアクシデントだったというんですね。
もしイエスが予定通りにその生涯をまっとうしていれば、人類にとっての恩恵は計り知れないほど大きなものになっていただろうとインペレーターは述べます。