柳田国男と島崎藤村 柄谷行人『世界史の実験』【書評】
柄谷行人の『世界史の実験』(岩波新書)を読みました。
柄谷は戦後日本を代表する文芸批評家ないし思想家で、アメリカやアジアにも多数の読者をもっています。
本書の内容は柳田国男の再検討。
意外なことに、柄谷のルーツには文学や哲学のみならず柳田の民俗学があります。
柄谷はシャレド・ダイアモンドの『歴史は実験できるのか』を読んだことがきっかけとなり、柳田の再検討に向かったといいます。
柳田国男と島崎藤村
第1部の2章は、島崎藤村と柳田國男を比較したの文芸批評となっています。
類似してはいるがその一部が顕著に異なる2つのシステムを比較するという柳田の方法を、柳田本人に適用した文章です。
ここでは柳田と島崎という2つの類似したシステムが取り上げられ、ふたりの間にある微妙な差異が検討されるわけです。
類似した複数のシステムを、むしろその微細な差異に着目して比較するという方法は、柄谷が初期から使ってきた技です。
文芸批評だけでなく、マルクスやウィトゲンシュタインなどを対象とした哲学的な仕事にもこの性格が見られます。
これは柳田国男から学んだ方法だったのでしょうか?西洋哲学や日本の文芸批評ではなく、柳田にルーツがあったのだとしたら、かなり意外です。
デカルトは関西弁で訳すべき
第2部に出てくるデカルト論もおもしろいです。
デカルトは『方法序説』をフランス語で書きましたが、最後のコギト・エルゴ・スムはラテン語です。なぜ最後だけラテン語にしたのでしょうか?
柄谷によるとこれは、フランス語で発生する主語の「私」を消去したかったからだといいます。
フランス語ではどうしても文法的に「私」が入り込んでくるため、デカルト自身の思考内容を裏切ってしまうのです。
だから「我思うゆえに我あり」はまずい訳で、「思うわ、ゆえに、あるわ」と関西弁で訳すことが適切だといいます。
これは半分ジョークかもしれませんが、デカルトの言語使用に着目したこのような考察は初めて聞きました。いつもながら斬新で独創的な発想だと思います。
柄谷行人のおすすめ本については上記の記事も参考にしてみてください。