シュヴェーグラー『西洋哲学史』がとんでもない名著だった件
西洋哲学史をテーマにした本はあれこれ出ていますが、そのなかでもとりわけ古く、長いことロングセラーになっている古典があります。
19世紀ドイツの哲学者シュヴェーグラーの『西洋哲学史』(岩波文庫)がそれ。
原書の発売は1848年、岩波文庫版は1939年が初版です。いまだにひっそりと読みつがれています。
僕はこれ十数年以上も前に買ってそのまま積ん読にしてあったのですが、今回気が向いたので読み進めてみたところ、わかりやすくて驚きました。しかも面白い。
とくにアリストテレスのパートを読むと、本書の際立った明晰さがわかりますよ。アリストテレスをこんなにわかりやすく解説できる人ってなかなかいないんじゃないかしら?
シュヴェーグラーはヘーゲル中央派の学者。当時無数にいたヘーゲルチルドレンの一人です。
そのイメージから、本書もヘーゲル哲学史のコピーなんじゃないかと思ってたんですよね。あまり読み始める気がしなかった理由の一つがそれです。
しかし実際に読んでみると全然そんなことなかったです。むしろ随所にヘーゲルへの批判も見られます。たとえば理性偏重のヘーゲルに対して、シュヴェーグラーは感性や具体的な事実を重視しています。
とはいえ全体としてはヘーゲル的ではありますが。たとえばギリシアにおいて主観と客観の素朴な統一体であったものが、共同体の崩壊とともに分裂し、それが近代にいたって高次元で回復した的なストーリーは、本書でも通奏低音としてあるように思います。
上巻の内容はギリシアから中世の終わりまで。
約300ページのうちプラトンとアリストテレスだけで100ページ以上あります。一方で中世の哲学は10ページで終わる模様。
ほとんどソクラテスとプラトンとアリストテレスの話をしているといっても過言じゃない構成です。
プラトンはソクラテスの考え方を引き継いだ
シュヴェーグラーの特徴は、プラトンの思想をソクラテスの方法の発展と捉える点でしょうか。
プラトンはソクラテスの弟子ですが、思想的にはピタゴラスやパルメニデスの影響下にあることが有名です。ラッセルの哲学史でもこの点が強調されます。
しかしシュヴェーグラーは「ソクラテスを客観的にしたもの」がプラトンの体系であると述べています。
これはどういうことか?
ソクラテスといえば他者との対話で有名ですよね。根本から「正義とはなんだろう?」とか「善とはなんだろう?」とか問い詰めていって、相手の無知を暴き出していくスタイルです。
ソクラテスのこの対話が結局のところ何をしているのかについてはいろいろな説があるのですが、シュヴェーグラーによると、ソクラテスは言葉の正確な定義を探求しています。言いかえれば、普遍的で正確な概念を追い求めているわけです。
なんでそんなことをするかというと、ソクラテスにとって知は徳と同一だからです。倫理や道徳は認識からダイレクトに生じる。
認識なしに生じるものに善はありえないし、認識をもって生じるものに悪はありえない。人に悪い行為をさせるものは認識の欠如にすぎない。(シュヴェーグラー『西洋哲学史』谷川徹三・松村一人訳)
正確無比な概念を認識すれば、そこからダイレクトに倫理的な行為が出てくる。ほんとかよって感じですが(アリストテレスはここを批判する)、ともかくソクラテスはそう確信し、概念の探求に向かうわけです。
そしてシュヴェーグラーいわく、ソクラテスが探求したそれぞれの概念を客観化したものがプラトンのイデアにほかなりません。
正義とは何かとか美とは何かとか、ソクラテスによって執拗に追い求められた概念ですが、それを正義のイデアや美のイデアとして取り出してきて天上に据えたわけです。ソクラテスにおいて実践的な活動でしかなかった概念探求を理論化し、体系化したということですね。
ここからわれわれは、プラトンのイデア論が、ソクラテス自身の場合には主観的技能としてしか現れていない右の方法を客観化したものにすぎないことを知るであろう。プラトンのイデアは、ソクラテスの普遍的概念を実在する個物としたものである。(シュヴェーグラー『西洋哲学史』谷川徹三・松村一人訳)
アリストテレスとソクラテス・プラトンの違い
アリストテレスによるプラトンのイデア論批判は有名です。
プラトンは現世から隔絶した世界に真の存在であるイデアを置き、現世はそれの影、劣化コピーのようなものと見て取ったのでした。
しかしそれでは、イデアからどのようにしてこの影の世界が発生したのでしょうか?また、この地上世界の物事の変転は、イデアとどのような関係にあるのでしょうか?
イデア論では、このような現実世界の生成を説明できない。これがアリストテレスによるプラトン批判の核心です。
アリストテレスはイデアを地上に降ろし、それを個物のなかに入れて生成の原動力にします(この個物に内在化したイデアは形相と呼ばれる)。こうして「アリストテレスの体系は生成の体系」になります。
以上のようなプラトンとアリストテレスの違いはわりとどの本にも書いてあるのですが、本書で印象的だったのは、むしろアリストテレスとソクラテスのあいだにある差異を指摘したパートでした。
ソクラテスは知と徳を同一視し、正しい認識が得られればそれはダイレクトに正しい行いにつながると考えたのでした。アリストテレスはこれを疑います。彼によると、道徳や倫理においてもっとも重要なものは知ではなく欲求です。
ソクラテスは弁証的なもののうちにのみ倫理の基礎を求めて、徳と知とは一つであるとした、そのために、すべての倫理的行為の本質的要素をなしているパトス論的な契機が廃棄されてしまった、とアリストテレスは考える。徳の最初の根底は理性ではなくて、魂の諸状態、自然によって規定されたもの、衝動である。(同書)
したがって、正しい認識を得さえすれば道徳的な人間や行為がそこからそのまま出てくると考えたソクラテスとは違って、
われわれは知識を発達させることによってではなく、練習と習慣によって善を習得する。(同書)
と、アリストテレスは考えます。
このへんはわれわれの常識に近くてしっくりきますよね。ラッセルいわくアリストテレスの哲学はプラトンと一般常識の混合とのことですが、倫理学においてはプラトン的要素が薄いぶん、すっきりわかりやすい体系になっている気がします。
ちなみにソクラテスとプラトン、アリストテレスの共通性については山川偉也の『古代ギリシアの思想』(講談社学術文庫)がわかりやすいです。
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