ハイデガー退屈論の再解釈『暇と退屈の倫理学』【書評】
國分功一郎のベストセラー、『暇と退屈の倫理学』を読みました。
僕が読んだのは新装版で、サイズがコンパクトになり、値段もだいぶ安くなっています。分厚い新書みたいな感覚。
著者はスピノザやドゥルーズを専門にする哲学者。しかしこの作品で主に扱われるのはハイデガーです。
ハイデガーの退屈論を批判的に再構成することで、オリジナルの退屈論を構築する。それがこの『暇と退屈の倫理学』の狙いだといっていいでしょう。
ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を取り上げる
本書で取り上げられるのはハイデガーの『形而上学の根本諸概念』という講義録です。これはハイデガーが1929年に大学で行った講義を収録したもの。
ちょうど彼の主著『存在と時間』と同時期の講義ですね。実際、話の運び方など『存在と時間』に似ている部分が目につきます。
どうして『形而上学の根本諸概念』を取り上げるかというと、この講義録のなかに退屈論の最高峰とされる議論が登場するからです。
それを批判的に検討していくのが著者の目的になります。
3種類の退屈
ハイデガーの退屈論とはどのようなものでしょうか?
ハイデガーはまず、退屈を3つに分けます。
退屈の第1形式は「何かに退屈させられること」。たとえば、人を待っているけれどもその人がなかなか来ない。退屈だ。これが1番目の退屈です。
退屈の第2形式は「何かに際して退屈すること」。たとえばパーティに出席する。パーティの内容自体はそれなりに楽しい。しかし全体としてみればなぜか退屈の気分に支配されている。これが2番目の退屈です。
退屈の第3形式は「なんとなく退屈だ」というもの。これといった理由もない。ただ、なんとなく退屈だ。これが3番目の退屈です。
注意すべきは、第1形式→第2形式→第3形式と進むにつれて、退屈が深まっていくとハイデガーが考えていること。
つまり第3形式の「わけもなくなんとなく退屈だ」がもっとも深い退屈です。そこにはもはや一時的な気晴らしの可能性すら存在しません。
で、どうなるかというと、退屈の深淵まで追い詰められた人間は最後の最後で眠れる可能性に目覚め、決断へと至り、状況を打開するとされます。
この辺は前期ハイデガーお得意の論理で、『存在と時間』と似たような道行きですね。
『存在と時間』で人を追い詰めるのは退屈ではなく、「不安」と「死」でしたが。
國分功一郎によるハイデガー批判
國分はハイデガーのこの議論を批判します。
その要点をかんたんにいうと、人の一生とは第2形式の退屈そのものだ。第1形式と第3形式の退屈は、第2形式の退屈に対処できなくなった人間の逃避先にすぎない。第2形式の退屈をいかに生きるかが重要だ、というものです。
ポイントは第3形式を第1形式と等しいものとみなし、その価値を奪うところ。そして、第2形式の退屈を主眼に置くところです。
ハイデガーは第3形式の退屈を根源に置き、第1形式と第2形式をそこからの派生体と捉えたのでした。そして第3形式に置かれた人間の「決断」で事態は打開されると考えます。
それに対して國分は、第2形式の重要さに着目し、逆に第1形式と第3形式の退屈をイコールとした上で両者を第2形式からの逃避とみなします。そして人生そのものである第2形式の退屈といかに付き合っていくかを考えるのです。
ハイデガーの「決断主義」的な思考への批判が議論のベースにあるといえそうですね。
後期ハイデガーにこの批判が当てはまるのか?
ただ、この批判は前期ハイデガーにしか当てはまらないと思います。
『存在と時間』を出版した後のハイデガーは政治に傾倒、ナチスに接近していきました。ところがその目論見が完全に失敗。ドイツ敗戦後のハイデガーは深刻なうつ病に見舞われます。いわば「決断」が仇になったかたちですね。
おそらくハイデガーはこの事態から自分を反省したのでしょう、後期になると思考の道行きが変わっていきます。
「自由」とか「決断」とかの勇ましい印象のあった前期の思考に対し、後期のハイデガーは「待つこと」を重視するのです。
後期ハイデガーの思想を理解するのは難しいですが、國分の批判がすでに織り込まれていることは確かだと思います。
後期のハイデガーが退屈論を展開したら、『形而上学の根本諸概念』におけるそれとはまったく異なるものになっていたでしょう。
後期ハイデガーに興味のある方は以下の記事を参考にどうぞ。
ちなみに、本書で言及のあったスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』(集英社新書)も読んでみました。
哲学書としては國分のほうが上だと思いますが、色々な退屈論に言及するエッセイとしてけっこう面白かったです。