ハイデガー退屈論の再解釈 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』【書評】

2021年12月28日ハイデガー

國分功一郎のベストセラー『暇と退屈の倫理学』。

人間は暇や退屈とどう向き合って生きるべきなのか?

これが本書のテーマです。

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本書は「倫理学」ですから「~すべき」という主張が出てきます。これがたとえば「退屈の分析論」とかなら退屈のタイプを色々並べるだけで終わったりします。

ちなみに僕が読んだのは新装版。サイズがコンパクトになり、値段もだいぶ安くなっています。分厚い新書みたいな感覚。20ページぐらいの付録も追加されているので、今から読むならこっちにしたほうがいいでしょう。

著者の國分功一郎は、スピノザやドゥルーズを専門にする哲学者。しかしこの作品で主に扱われるのはハイデガーです。

ハイデガーの退屈論を批判的に再構成することで、オリジナルの退屈論を構築する。それがこの『暇と退屈の倫理学』の狙いだといっていいでしょう。

といってもそのメイン部分に至るまでの議論も色々と興味深いです。本書のおおまかな構成はだいたい以下の通り。

1. 暇と退屈の原理論…ラッセルとスヴェンセンの退屈論を批判的にチェック。

2. 暇と退屈の系譜学…退屈の歴史をチェック。定住革命のせいで人間は退屈に襲われるようになった。

3. 暇と退屈の経済史…退屈化した人間と経済システムのかかわりをチェック。とくにウェブレンに着目。

4. 暇と退屈の疎外論…現代の消費社会における退屈をチェック。

5. 暇と退屈の哲学…いよいよハイデガーの退屈論が登場。くわしくは後述。

6. 暇と退屈の人間学…ハイデガーの批判に入っていく。生物学を参照する。

7. 暇と退屈の倫理学…ハイデガーの批判的検討を活かし、著者オリジナルの退屈論が打ち出されます。

以下、本書のメイン部分といってもいいハイデガーについてのパートをくわしく見てみましょう。

ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を取り上げる

本書で取り上げられるのはハイデガーの『形而上学の根本諸概念』という講義録です。

ハイデガーが1929年に大学で行った講義を収録したもの。

ちょうど彼の主著『存在と時間』と同時期の講義ですね。実際、話の運び方など『存在と時間』に似ている部分が目につきます。

どうして『形而上学の根本諸概念』を取り上げるかというと、この講義録のなかに退屈論の最高峰とされる議論が登場するからです。

それを批判的に検討していくのが著者の目的になります。

 

退屈には3つの種類がある

ではハイデガーの退屈論とはどのようなものでしょうか?

ハイデガーはまず、退屈を3つに分けます。

退屈の第1形式は「何かに退屈させられること」。たとえば、人を待っているけれどもその人がなかなか来ない。退屈だ。これが1番目の退屈です。

退屈の第2形式は「何かに際して退屈すること」。たとえばパーティに出席する。パーティの内容自体はそれなりに楽しい。しかし全体としてみればなぜか退屈の気分に支配されている。これが2番目の退屈です。

退屈の第3形式は「なんとなく退屈だ」というもの。これといった理由もない。ただ、なんとなく退屈だ。退屈でしょうがない。これが3番目の退屈です。

 

注意すべきは、第1形式→第2形式→第3形式と進むにつれて、退屈が深まっていくとハイデガーが考えていること。

つまり第3形式の「わけもなくなんとなく退屈だ」がもっとも深い退屈です。そこにはもはや一時的な気晴らしの可能性すら存在しません。

で、どうなるかというと、退屈の深淵まで追い詰められた人間は最後の最後で眠れる可能性に目覚め、決断へと至り、状況を打開するとされます。

この辺は前期ハイデガーお得意の論理で、『存在と時間』と似たような道行きですね。『存在と時間』で人を追い詰めるのは退屈ではなく、「不安」と「死」でしたが。

 

國分功一郎が批判するのはこの「決断主義」ともいえるもので、「決断すれば内容はなんでもいいんだろうか」とか「燃えるものを見つけさえすればそれで万事解決なんだろうか」という視点が出てきます。

実はこの批判は、ラッセルのいう「生きがいを見つけよう」的なまっとうな解決策にも当てはまります。

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テロとか反社会的な活動とかに生きがいを見出したり燃えちゃったりしたとして、それもオッケーなんだろうかということ。

 

國分功一郎によるハイデガー批判

では國分のハイデガー批判を見ていきましょう。

その要点をかんたんにいうと、人の一生とは第2形式の退屈そのものだ。第1形式と第3形式の退屈は、第2形式の退屈に対処できなくなった人間の逃避先にすぎない。第2形式の退屈にとどまり、それをいかに生きるかが重要だ、というものです。

ポイントは第3形式を第1形式と等しいものとみなし、その価値を奪うところ。そして、第2形式の退屈を主眼に置くところです。

ハイデガーは第3形式の退屈を根源に置き、第1形式と第2形式をそこからの派生体と捉えたのでした。そして第3形式に置かれた人間の「決断」で事態は打開されると考えます。

それに対して國分は、第2形式の重要さに着目し、逆に第1形式と第3形式の退屈をイコールとした上で両者を第2形式からの逃避とみなします。そして人生そのものである第2形式の退屈といかに付き合っていくかを考えるのです。

ハイデガーの「決断主義」的な思考への批判が議論のベースにあるといえそうですね。

 

後期ハイデガーにはこの批判が当てはまらないかも

ただ、この批判は前期ハイデガーにしか当てはまらない可能性はあります。

『存在と時間』を出版した後のハイデガーは政治に傾倒、ナチスに接近していきました。ところがその目論見が完全に失敗。ドイツ敗戦後のハイデガーは深刻なうつ病に見舞われます。いわば「決断」が仇になったかたちですね。

おそらくハイデガーはこの事態から自分を反省したのでしょう、後期になると思考の道行きが変わっていきます。

「自由」とか「決断」とかの勇ましい印象のあった前期の思考に対し、後期のハイデガーは「待つこと」を重視するのです。

後期ハイデガーの思想を理解するのは難しいですが、國分の批判がすでに織り込まれているんじゃないかと思わせる部分はあります。

後期のハイデガーが退屈論を展開したら、『形而上学の根本諸概念』におけるそれとはまったく異なるものになっていたのではないでしょうか。

 

なおハイデガーに興味の出てきた方は、以下の記事を参考に入門してみてください。

ついでながら、本書で言及のあったスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』(集英社新書)も読んでみました。

哲学書としては國分のほうが上だと思いますが、色々な退屈論に言及するエッセイとして面白く読めます。

色んな思想家や作家の退屈論が参照されまくっていて、退屈論のカタログみたいな趣もあり。