カントの『純粋理性批判』をわかりやすく解説【理性にはバグがつきもの】

2022年4月28日カント

すべての哲学はカントへと流れ込み、すべての哲学がカントから流れ出す。

こう言われるように、カントといえば哲学史を代表する人物のひとりです。

そしてカントの代表作といえば『純粋理性批判』。

以下、この本のざっくりとした解説をこころみてみたいと思います。

さてこの有名な作品、いったい何を主張する本なのでしょうか?

一言でいえば、「理性は正しい用法を守らないとバグが発生するから気をつけてね」ということです。

ウィトゲンシュタインのいう「語りえないものごとについては沈黙せねばならない」に似たことを言っているのが、実はこの本。

 

…しかしこれでは意味不明なので、まず『純粋理性批判』を「純粋」と「理性」と「批判」の3つに分けて解説してみようと思います。

そして最後に、純粋理性批判を行ったカントの真のもくろみについて説明します。

純粋ってどういうこと?批判って何をするの?

まず「純粋」とはなんでしょうか?

これはノイズや不純物に汚染されていない「ありのままの姿」みたいなニュアンスをイメージしてもらえばいいと思います。

たとえば三角形の性質を調べようとする場合、そこらへんに雑に描かれた三角形を調べていたのでは、色々とおかしな定義が導き出されてしまいますよね(角はちょっとだけ丸みを帯びているなど)。三角形を調べるなら、そのような感覚的な不純物の混ざり込まない、「純粋」な姿を考察しなくてはならない。

理性を調べる場合でもこれは同じ。カントは経験的な不純物や感覚的ノイズの混合していない、「純粋」な理性を見据えて考察していこうとします。

これが純粋理性批判の純粋の意味。

 

次に「批判」とはなんでしょうか?

批判といっても対象をコテンパンにこき下ろすみたいな意味ではないのでご注意を。

批判とはむしろ、「吟味する」みたいなニュアンスです。鑑定家が対象の真価を見極めるみたいな感じ。

理性にはどのような機能がそなわっているのか?理性には何ができて、何ができないのか?これらをじっくり吟味することが、カントのいう「批判」です。

 

純粋理性批判の「純粋」と「批判」はこれでだいたいわかりました。では肝心の「理性」とは何を意味しているのでしょうか?

…実はこれがいちばん難しい。

これを理解するためには『純粋理性批判』に登場する主人公を順番に見ていく必要があります。感性、悟性(知性)、そして最後に理性です。

まずは感性から見ていきましょう。

 

感性とは何者か?

カントのいう感性とはなんでしょうか?

一言でいえば、外界データの受容機関です。

人間の外には世界が広がっていますよね(常識的に考えれば)。人間は外界にふれて色々な情報をキャッチし、あれこれを感じたり知ったりすることができます。この外界情報の受け入れのための通路が感性です。

そして注目すべきことに、感性には「空間」と「時間」がその形式としてそなわっています。いうなれば、感性という色メガネに「空間」と「時間」の色がついている感じ。この結果、感性を通って入ってくる情報は空間と時間という色合いを帯びることになります。

ということは、カントの考えでは世界そのものに空間も時間も存在しないんですね。感性で入手したデータをもとに人間が作り上げる世界、そこにしか空間や時間は存在しないとカントは考えます。

 

ここからわかる通り、カントは外界そのものをありのまま認識できるとは考えていません。人間にはけっして外すことのできない色メガネ(これが感性や悟性などの認識装置)が装着されており、この色メガネを通して知った世界しか見えないからです。

こうしてカントは外界そのものを物自体、人間が構成した世界を現象と呼んで区別します。

 

しかし外界の情報を入手しただけではまだ人間の認識はできあがっていません。そのデータをスッキリと整えて、さらに加工する必要がある。

その役割を果たすのが次に説明する悟性(知性)です。

 

悟性(知性)とは何者か?

感性が入手したデータを加工するのが悟性です。

なじみのない言葉ですが、まあ「知性」と同じようなものだと考えておけばオーケーです。

悟性にはカテゴリー(純粋悟性概念)と呼ばれる装置がそなわっていて、感性がゲットしてきたデータにこれが適用されることで僕たちの経験が成り立ちます

たとえば因果関係が現れてくるのも悟性のしわざですね。因果関係は悟性のカテゴリーであり、このカテゴリーが感性データに適用されたからこそ、僕たちの経験には因果関係が織り込まれているわけです(物自体界には因果関係は存在しない)。

ヒュームは「因果関係なんて幻だ」と言いました。これに対してカントは、「たしかに世界そのものには因果関係は存在しないが、人間の悟性が加工した現象界には因果律が張り巡らされている」と答えるわけです。

 

注意したいのは、この悟性はわれわれがイメージする意識とは違うという点。僕たちが意識的にあれこれ考えるのは、ここでいう悟性の働きとは別です。

実際には僕たちが気づいたときにはもう、悟性は世界を加工し終わっています。

 

そしてもう一つ注目したいのは、この純粋悟性概念(カテゴリー)が適用されることで認識は普遍性と客観性をもつという点。これが自然科学の土台になります。

世界そのものを認識できないんだから、人間の知はバラバラでフリーダムなカオスだ、みたいな方向に普通は行きそうなものですが、カントは逆なんですね。

人間は現象しか認識できないのだけれども、すべての人間に共通な純粋悟性概念(カテゴリー)が適用されていることで、その現象内で普遍的かつ客観的な知が成り立つわけです。

悟性が正確無比に加工した現象というベースのおかげで、自然科学は普遍的な妥当性をもちます。

 

ここからちょっとだけ余談。

感性が外界のデータを入手し、悟性がそれを加工する。話はここで終わりそうなものですが、カントはここに大問題を見つけてしまいます。

どうして悟性のカテゴリーが感性由来のデータに適用できるのか?感性的な情報と悟性のカテゴリーでは性質がぜんぜん違うのに、どうしてそれがコラボレーションできるのだろう?

この大問題(とカントが見なしたもの)を解決するために登場するのが、構想力(想像力)です。

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『純粋理性批判』の執筆で、カントはここにいちばん苦労しています。

ここに立ち入ると混乱するので(なにしろカント本人ですら混乱している)、構想力を掘り下げることはしません。とりあえず感性と悟性をつなぐ第3の能力が構想力だと理解しておけば十分です。

では次にいよいよ理性を見ていきます。

 

理性とは何者か?

感性と悟性はまあわかりやすいと言えなくもない。難しいのはこの理性です。

悟性のところで話は尽きそうなものですが、このうえ理性がどんな仕事を果たすのか?

カントによると、理性のはたらきは悟性の加工物にさらなる統一をもたらすことです。理性はそれを絶対的なもの、究極的なものを持ち出すことで成し遂げます。このさいに理性が使う道具を「理念」と呼びます。

絶対的で究極的な、それ以上の果てがないような理念、それでもって悟性のちまちまとした思考をガバっとまとめあげる働きですね。理性の理念とはいわば、人間の認識がまとまりを欠いてバラバラに壊れてしまわないための補助輪、ツールです。究極的な理念をそっと添えるわけです。

理性が用いる理念には「神」「自由」「不死」があります。これらの理念を使って、理性は人間の思考にまとまりや方向づけを与えます。底が抜けないように支えてあげる感じ。

これを理性の統整的使用といいます。この統整的使用こそが、理性の正しい用法

弘文堂の『カント事典』は次のようにまとめています。

悟性が判断の機能であり規則の能力であるのに対して、理性は推理の能力であり、個々の規則を越えて認識の体系的統一を志向し、理念に基づいて経験的認識の全体性ないし無制約性をめざす。それゆえ理念は悟性認識におけるカテゴリーのように対象を構成する概念ではなく、全体性ないし無制約性が「あたかも~あるかのごとく」認識の対象を統制する概念である。(『カント事典』「理念」の項より引用)

…これでもカント本人の文章に比べたら易しい。でもなんとなく言ってることは把握できるようになったのではないでしょうか?

 

感性は外界に関わりデータを受容、悟性は感性に関わりデータを加工、構想力は感性と悟性に関わり悟性のデータ加工を手助けしました。そして理性は悟性に関わり、認識の仕上げを行います。

これで終わればめでたしなのですが、話には続きがあります。実は、理性の使用にはバグがつきものなのです。

 

理性の理念は悟性に関わって統整を与えるものでした。しかし理性の理念を客観的な実在であると人が勘違いすると、ここにバグが発生します。

神とか自由とか不死とかは、認識をうまい具合に構造化するためのツールにすぎないのでした。それが外界に実際に存在しているかとうかは確かめようがないのです(もちろんその存在を否定することもできない)。

人間が存在者を認識するには、感性からのデータ受容が不可欠でした。しかし理念は理性が生み出して悟性に適用するものですから、感性という経路を通過していません。したがってそれを外界の存在者と同一視することはできないわけです。ここを忘れると、理念をツールとしてではなく実在物として扱う誤った道に迷い込んでしまいます。

この理性の誤った用い方を理性の構成的使用といい、それによって生じたバグが西洋哲学伝統の形而上学にほかなりません。

神は存在するのか、人間に自由はあるのか、死んだらそれで終わりなのかそれとも不死なのか。こうした究極的な問いを考えるのが形而上学です。しかしカントいわく、これは理性の用い方を誤ったために生じたバグにすぎない。

カントの時代にはすでに従来の形而上学はコテンパンに批判されていました。カントは一応それを追認したことになります。

神、自由、不死。形而上学のコアにあるこの3つの理念は、理論的には証明できない。語りえないものについては、もう沈黙しなくてはならない。

これが『純粋理性批判』のメインとなる主張です。

 

実践理性批判から新しい形而上学へ

では神とか来世とか自由とかは、それ自体もうどうでもいいのでしょうか?

もう形而上学とかを考えるのはやめて、現実的な目の前にある事態に効率的に対処し、生きてるうちに幸福と快をできるかぎり最大化し、寿命がきたらとくに意味もなく死んでいけばそれで万事オーケーなのでしょうか?

こういう方向には行かないのがカントです。

カントの真のもくろみはむしろ、古い形而上学を完全に葬り去ったあとに、新しい形而上学を打ち立てることにあります。

それは実践理性を土台とする形而上学であり、神と不死と自由の理念はここで息を吹き返します。

 

『純粋理性批判』でおもに扱われた理性能力って、実は理性のサブ機能にすぎないんですよね。これを理論理性といいます。悟性に働きかけてその概念に統一をもたせるのが仕事でしたね。これはいわば理性の副業です。

理性の本業は何かというと、意志に働きかけて、人間に道徳的な行為をうながすことです。この理性を実践理性と呼びます。こっちが理性の本体。

理性が理論理性と実践理性のふたつに分かれていることにはギョッとするかと思います。その反応は自然です。

悟性にはたらきかける認識の能力と、意志に働きかける道徳の能力。これらが別種の能力ではなく、同じひとつの能力のふたつの側面であるというのは、カント独特の発想です。カントが「理性」という言葉でどのようなイメージを膨らませていたのかはかなりの謎。

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余談になりますが、ここの収まりの悪さにムズムズしたフィヒテは、理論理性を実践理性に吸収させるかたちで両者の統合をくわだてました。

 

ともかくカントにとっては、理性にはふたつの働きがあり、しかも認識にかかわる理論理性ではなく、道徳的実践にかかわる実践理性こそが本体なのです。

そして実践理性というこの土台のうえに、従来の形而上学(これは理論理性の構成的使用がもたらすバグだった)とは異なる、新たな形而上学を打ち立てようとするわけです。

こうして話はカント第2の主著『実践理性批判』へとつながっていきます。

 

『純粋理性批判』のおすすめ入門書については次の記事を参照のこと。

『判断力批判』の解説はこっち。