トーマス・マン『ゲーテとトルストイ』自然vs精神【書評】

2020年11月19日ドストエフスキー

トーマス・マンの『ゲーテとトルストイ』(岩波文庫)を読了しました。

『トニオ・クレーゲル』や『魔の山』で知られるドイツの小説家マンがゲーテとトルストイをテーマに行った講演があるのですが、本書はその元となる文章です。

けっこうレアな本なのではないでしょうか。たまたま古本屋で見つけたのですが、岩波文庫にこういう本があること自体知らなかったですね。

本書の内容ですが、基本的にゲーテとトルストイの類縁性について論じています。そして対照項としてシラーとドストエフスキーが持ち出される。ゴーリキーやエッカーマンらの証言をまじえつつ、両者の異なる性格を浮き彫りにしています。

両グループは同じ天才でもタイプが違うとマンはいいます。ゲーテとトルストイは自然の恩寵を受けた天才。それに対してシラーとドストエフスキーは自然への反逆からなる精神の恩寵による天才です。

自然には造形的な美、肉体、客観性、懐疑などが属します。一方で精神には批評や道徳の観点(おそらく哲学と言い換えることができる)、主観性、さらにゆるぎのない信仰が属します。

興味深いのは自然に懐疑を、精神に信仰(魂の平安とも表現されている)を割り振っているところ。

よくよく仔細に眺めてみると、自然の息子たち、造形家、客観的人間には、理念の子にはまったく縁のない、ある種の懐疑的な性質のあることがわかります。(トーマス・マン『ゲーテとトルストイ』)

自然は善でも悪でもなく、どこまでも無関心なものであり、それが人間の性格のうちに現れると、ある種の懐疑癖として発動するとマンはいいます。宗教とか道徳とか、そういうものに熱烈にコミットできないタイプになるんですね。

一方で精神は神や道徳律といった次元とはるかに調和的であり、魂の平和が人間の幸福であるのなら、精神の人は自然の人よりもずっとたやすく幸福にたどりつけるのだとマンは言っています。

これ普通は逆の考えになりそうですよね。精神の人のほうが病的で、自然の人のほうがなんか色々と上手くやってるみたいなイメージになるかと思います。

しかしよくよく考えてみると、確かにマンの言う通りかもしれないと思えてきます。

たとえばドストエフスキーには純粋な信仰がありますよね。あれだけ暴れまくって絶望やらなんやらを味わい尽くした社会不適合者なのですが、その精神の底はなんとなく明るい。それは作品にも反映していて、ドストエフスキーの小説って暗いトーンのわりには必ず強烈な光があります。あれは信仰のなせるわざだと思います。

逆にゲーテやトルストイは世の中とうまく協調していますが、その根っこにはなにか絶望のようなものがあります。それが作品にも反映し、どこか陰鬱なムードがただよいます。ゆるぎのない信仰や理念がないからだと思います。

これが一番わかりやすく現れるのが死に対する態度ではないでしょうか。精神の人は死をポジティブなものとして捉える傾向が強いと思います。逆に自然の人は死をネガティブなものとして捉えがちだと思う。本書の主役である4人だけでなく、広く応用が効く見方な気がします。

ゲーテとトルストイの差異

本書はおもにゲーテとトルストイの類似性が取り上げられますが、ふたりの違いについて語られた部分もあります。

もっとも興味深いのはトルストイの精神性について。晩年のトルストイは宗教じみた方向に向かいますよね。しかしトーマス・マンによると、あれは精神性の発露なのではなく、自然の人が自らの本質を裏切った脱線にすぎないというんですね。

ゲーテが自らの本質のうちに安らっていたのに対し、トルストイはそれを見失い、自分とは別の人間になろうとする絶望的な努力を始めたのでした。

このこと(引用者注…ゲーテとトルストイが同じタイプの芸術家であること)を不審に思うのは、トルストイの幼稚で稚劣な精神化の試みを理由に、本気で彼を、シラーやドストエフスキーと同じように、精神の児と考え、ゲーテと同様な自然の貴族性を、彼のうちにも認めることのできない人だけです。(同書)

僕もトルストイに関しては晩年のイメージが強かったですね。だから本書のテーマ設定にも最初おやっと思ったわけですが、マンの言うことを聞いていると色々と腑に落ちるところがあります。

たしかにトルストイの作品っていくら宗教とか哲学について語ってもドストエフスキーのような迫力が出てこないんですよね。昔トルストイの小説を読んだとき、なんでこの人が圧倒的な評価をされてるんだろうと疑問に思いましたが、精神の人だと勘違いして彼を読んだから肩透かしを食らったのでしょう。

トルストイの本領はゲーテのように自然の恩寵に満ちたフィールドにこそあり、ドストエフスキーを評価するときと同じものさしでは測れない作家なのだと思います。