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ムイシュキンはアリョーシャとスメルジャコフに分裂【山城むつみのドストエフスキー論】

2024年7月14日

山城むつみの『ドストエフスキー』を読了。毎日出版文化賞を受賞した作品で、一時期かなり話題になっていました。

講談社文芸文庫に収められるも価格設定が鬼だったりもしてなかなか手を出す機会がなかったのですが、今回ようやく読みました。

正直なところ評判ほどの威力は感じなかったように思います。日本人の書いたドストエフスキー論ではいまだに森有正のが一番かなと。

とはいえ面白いところもあって、とくにカラマーゾフ論は大きな発見があります。

本書の特徴は「ラズノグラーシエ」と著者が呼ぶ不協和の原理からドストエフスキー作品を追っていくところ。ラズノグラーシエはバフチンのポリフォニー原理をアレンジして導き出されています。

バフチンのポリフォニー論は、ドストエフスキー作品に見られる多声性を取り上げたのでした。作者の統合的な視点が不在で、登場人物がそれぞれバラバラに自らの音を鳴らし、それが壮大なポリフォニーを実現していると。

山城むつみはこれを掘り下げ、ドストエフスキー本人は別に最初からポリフォニーを目指していたわけではないと考えます。むしろ作品の中心にキリスト的存在を置き、そこに各キャラクターが一致することを夢見ていたと。しかしその野望は各登場人物たちの反発によってくじかれ、結果として生まれたのがポリフォニー作品だったというわけです。

ただの反発やすれ違いではなく、キリストという強烈な収斂点への引き寄せられた各キャラクターは、最後の最後で強力な斥力でもって跳ね返っていきます。この斥力が生み出すのがラズノグラーシエです。

この線にそって『罪と罰』、『悪霊』、『作家の日記』、『白痴』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』がメインに取り上げられていきます。

アリョーシャとスメルジャコフ

山城むつみの『カラマーゾフの兄弟』論は前半、スメルジャコフに焦点を当てます。スメルジャコフはアリョーシャの半身だというんですね。

『白痴』の主人公にムイシュキンというキャラクターがいます。トルストイはこの作品を批判して、「最大の欠点はムイシュキンが病気であることだ」と言ったそうです。ドストエフスキーもそれを自覚していたようで、ここから彼は健康なムイシュキンを創造しようと悪戦苦闘をはじめます。

こうして長い苦闘のすえアリョーシャという奇跡の人物が誕生したのでした。

しかしその過程で、ムイシュキンにあったネガティブな部分を一身に背負う存在もまた生み出されます。それがスメルジャコフでした。ムイシュキンから癲癇を引き継ぐだけでなく、無神論的な悪を体現する存在です。

 

考えてみればアリョーシャとスメルジャコフが対を成すのはわかりやすい事実ですよね。でも一読してそれと気づくのは案外難しいと思います。アリョーシャが全面に登場しまくって、最後などはいかにも主人公な活躍をみせるのに対して、スメルジャコフはなんか大したことない脇役みたいな描かれ方をするからです。

でもよくよく注意してみるとスメルジャコフはどの場面でも核心的な役割を果たしているんですよね。光の主人公がアリョーシャなら、闇の主人公はスメルジャコフといえそう。

ウィトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を何十回も読んだことで知られますが、何度も読み返すうちに、スメルジャコフの存在感がどんどん増していったと語ったそうです。これよくわかりますよね。

 

多くの人はむしろアリョーシャとイワンを対になる存在として受け取るかと思います。しかしこれは微妙に外れているんですね。

アリョーシャとスメルジャコフの対照が核心にあり、イワンはその両極のあいだを揺れ動く人物だと考えるのが適切でしょう。勘違いしている人が多いですが、イワンは無神論者ではないですからね。無神論者だったら「神が作った世界を否定する」とは言えませんから。

 

チェルマシニャへ行くことの意味

スメルジャコフとイワンの暗示めいた会話についての考察も面白いです。「俺はチェルマシニャへ行くからな」の場面。

あのシーンに違和感を感じた読者は多いはず。イワンってそんなつもりであの言葉を発したのか?なにしろ当のイワンですらその自覚はないですからね。

何が起こったのか?

イワンの発した言葉はイワンの意識を離れ、独自の生命をもって他者に到達したと考えればスッキリします。デリダのエクリチュール論を思わせる展開。自分が発した言葉が自分の意識の統御を離れ、思わぬ意味を秘めた物質として誤配を引き起こすわけです。

そしてスメルジャコフはそこに自らの望むイワン像を読み取った。イワンは完全な無実かというと本人にもよくわからなくて、帰結した事件から遡行的に無意識の動機が再構成されていきます。

イワンはずっとアリョーシャ的なものとスメルジャコフ的なものとのあいだで揺れ動くんですね(おそらく本作が終わった後も)。スメルジャコフからしたらイワンは完全に自分の側の人物だと信じていますから、終盤、イワンの揺れ動きを見て幻滅し、イワンに対する態度が変化します。

 

ヨブ記とジューチカとイリューシャ

後半のジューチカ論やイリューシャ論も興味深くはありますが、だいぶ無理があると感じます。ジューチカやイリューシャは別の個体として復活しうるのではないかと説かれます。自我の個体原理を離れ、宗教的な次元へと向かおうとするような内容。いわばヨブ記の結末を肯定しようという方向性です。

旧約聖書のヨブは神から試練をうけ、あらゆる破滅を味わったうえに子供たちを取り上げられてしまいます。で、色々あったすえに神に認められ、別の家族が与えられてハッピーエンドとなるわけですが、われわれの地上的な感性からしたら納得できないですよね。元の子供たちの不幸はどうなるのか?別の子供たちが与えられてそれで代わりになるのか?

このような矛盾すらすべて解消し、神の懐ですべてがひとつになってハッピーエンドを迎える、これが神や宗教の怖ろしいところ(そしてわれわれ凡人の代表としてイワンが反発するところ)。われわれもいつかこの世を離れ、天国で目が覚めることになったとしたら、おそらくこのような超人間的な感性を手に入れるんだと思います。が、地上にいるあいだは悟りでも開くのでもなければ無理でしょう。

ただしドストエフスキー本人にこのような志向性があったと考えるのはけっこう妥当だと思います。彼はヨブ記を異常な感動でもって愛読していたそうですが、こういう次元で読み込んでいた可能性はありそう。

ちなみに東浩紀がこの山城むつみのカラマーゾフ論から影響を受けて、『観光客の哲学』でドストエフスキー論を展開しています。

その他ドストエフスキー関連のおすすめ本は以下の記事を参照のこと。

文学の本

Posted by chaco