ハイデガー『シェリング講義』汎神論と自由の両立
19世紀ドイツの天才哲学者シェリング。
ヘーゲルやヘルダーリンと学友だった彼は、ドイツ観念論の代表者であるばかりか、実存主義の隠れた震源とも言われます。
若きキルケゴールはシェリングの講義に出席していました。
そのシェリングを20世紀の大哲学者ハイデガーが料理した講義があります。それがこの『シェリング講義』。
僕が読んだのは新書館から出ているバージョンで、木田元が訳しています。
この講義録、シェリングの代表作『人間的自由の本質』を論じていきます。前半はまあまあわかりやすい。後半が激ムズ。
メインテーマは汎神論と自由の関係性です。真の自由は汎神論を求め、また真の汎神論は人間の自由を求める、という意外な事態が探求されます。
汎神論と自由が両立する?
汎神論といえば、スピノザの『エチカ』が有名です。存在するすべてを神の一部と捉える思想ですね。ちょっとインドの宗教思想にも通じるような考え方です。
ふつう汎神論といえば、自由の否定がイメージされますね。スピノザがいうように、個人の自由意志は錯覚にすぎない。すべての存在は神の摂理に支配され、必然のコースを歩むからです。
しかしシェリング(ハイデガー)は、この考えを否定します。彼によると自由は汎神論を要求し、汎神論は自由を要求するというのです。
彼らの思想を要約する力は僕にはないので、気になる人は本書を読んでください。
現代のスピノザ論の起源はここか?
スピノザと自由。この奇妙な取り合わせ。実は現代思想では、これがよく登場します。
パッと見よくわからないんですよね。ふつうに考えれば、スピノザの体系は自由の否定なのですから。なぜ自由を打ち出すときに、わざわざスピノザを持ち出すのか?
この考え方の原点はルイ・アルチュセールのスピノザ論にあるといわれています。
アルチュセールは20世紀フランスのマルクス主義哲学者です。彼が発明したスピノザ論が、後続に影響を与えたことになっている。
しかしハイデガーの『シェリング講義』を読むと、さらに元となる震源地があるのかなという気もしてきます。
本作はスピノザ論ではないものの、まさに汎神論と自由の両立を説いているわけですから。シェリング(ハイデガー)の言う論理がスピノザにも当てはまるのだと考えれば、そのまま現代のスピノザ論になりますね。
僕はシェリングを読んだことがないので、ハイデガーの解釈がどこまでシェリングに帰せられるか判断できないです。ひょっとするとハイデガーが自分の考えをシェリングに語らせているだけなのかも(ハイデガーによくあるパターン)。
しかしハイデガーの言ってることをそのまま受け取るなら、現代のスピノザ論のような考え方はシェリングにその源泉があるといえるかもしれません。
ハイデガーの講義録は読みやすいか?
ハイデガーの講義録は著作と比べてわかりやすいと言われています。
本当にそうだろうか?僕の場合は、とくに講義録がわかりやすいとは思わないんですよね。
本作の場合、扱っている対象がシェリングだから特に難しくなっているきらいがありますが。
そもそも『存在と時間』がそれほど難解だと思わないです。カントとかヘーゲルに比べれば、圧倒的に易しいですよ。そして内容もおもしろい。
ハイデガーを読むなら、入門書を何冊か通読した後で、いきなり『存在と時間』を読んでもいいんじゃないかという思いを強くしました。