退屈と格闘する人々 サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』【書評】

2020年3月1日

ノーベル文学賞作家サミュエル・ベケットの代表作。20世紀の劇作を代表する作品でもあります。

正直こんなにおもしろいとは思っていなかった。

批評家が持ち上げているだけの、小難しい作品なんだろう。そう思っていたのですが、実際に読んでみるとこれがおもしろい。

一言でいえば、退屈をテーマにした劇作ですね。そこに神学的な暗示が散りばめられることで、作品に形而上学的な奥行きが生まれている。

退屈をテーマにした作品といえば、僕のなかではチェーホフの劇作やブッツァーティの『タタール人の砂漠』がトップです。

ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、それらに並んだといってもいいでしょう。

 

『ゴドーを待ちながら』のあらすじ

話の筋はシンプルです。

主人公はエストラゴンとヴラジーミルの二人。退屈のあまり死にそうになっている浮浪者です。彼らが謎の救済者ゴドーをひたすら待ちわびる。それだけです。

暴君ポッツォと召使いのラッキーが通りかかったり、ゴドーからの伝言を携えた男の子が登場したりしますが、基本的に大きな事件は発生しません。

ゴドーが誰なのかも、ポッツォやラッキー、男の子が誰なのかも明かされません。

ただただ謎めいた語りと暗示が繰り返される。必死で暇をつぶそうとするエストラゴンとヴラジーミルのふたりの会話を、観客は眺めるだけです。

そんな作品のなにがおもしろいのかという感じですが、これがおもしろいのですね。なぜか?

 

『ゴドーを待ちながら』がおもしろい理由

ベケットの『ゴドーを待ちながら』は何故おもしろいのか。その理由として、まず退屈が見事に表現されている点が挙げられるでしょう。

ショーペンハウアーはかつて「人の一生は苦悩と退屈のあいだを揺れ動く振り子だ」と言い、退屈という状態に苦悩と並ぶ地位を与えました。現代において、この退屈の存在感はいや増すばかりです。

この退屈という魔物、そしてそれと格闘する人間。われわれ現代人のこの死闘が、『ゴドーを待ちながら』には表現されています。

人はそこに共感を覚え、また慰められるのだと思います。

 

もう一つの魅力は、神学的な暗示ですね。神学的な暗示が無数に散りばめられることで、作品に形而上学的な奥行きがそなわっています。

同じく退屈を扱った劇作でも、チェーホフには見られない特徴ですね。ある意味ではドストエフスキーに近いか。

劇中の会話はすべてが謎めき、無数の解釈を誘います。

・ゴドーは何者なのか?ゴッド(神)の暗喩なのか?神だとして、その神とは何者なのか?ひょっとすると死なのか?

・ゴドーからの伝言を携えた男の子はだれなのか?預言者なのか?天使なのか?

・ポッツォとラッキーは何者なのか?ひょっとするとポッツォがゴドー(暴君ヤハウェ)なのか?ラッキーがイエスなのか(頭に被せられる花輪)?

・そもそもエストラゴンとヴラジーミルは何者なのか?ほんとうに人間なのか?

この劇作を読み進めるなかで、このような疑問が僕の頭に到来しました。

 

『ゴドーを待ちながら』を読み終わると、人はこの作品についてお喋りしたくなる。こう言われているそうです。

それもわかりますが、僕としてはむしろ他の人の解釈を読んでみたいという気持ちが強いですね。説得力のある、独創的な解釈に出会ってみたいです。