『カラマーゾフの兄弟』ヨブ記とジューチカとペレズヴォン
『カラマーゾフの兄弟』は何種類も邦訳が出ていますが、根強い人気を誇るのが米川正夫が訳した岩波文庫バージョン。
第1版は1928年とのこと。以前から評判は耳にしていましたが、初めて米川訳で読んでみました。
ちなみにこの本を読むのはこれが5回目で、光文社→新潮→光文社→英訳ときて、今回は岩波版です。
思ったほど古さは感じさせない訳でした。てっきりもっと古文めいた文体が来るのかと身構えていましたが、普通にスラスラ読めます。そして確かに日本語の流れは文学的で、かっちり決まっている印象。ただゾシマ長老の回想パートあたりはヘヴィで、最初にこの訳で読むのはしんどそう。
ちなみにアマゾンのオーディブル(30日間の無料体験あり)にある『カラマーゾフの兄弟』はこの米川訳の音読です。
久々に読み返してみてもっとも印象的だったのは、アリョーシャとコーリャの対話ですね(次がイワンとスメルジャコフの対話)。
コーリャは13歳の少年なのですが、この小さな専制君主、ドストエフスキーの暗い主人公の系譜にある人物が、アリョーシャに邂逅し、新たな現実に開かれていくシーンの美しさは異常。
そして今回とくに注目してみたのがコーリャの犬ペレズヴォン。
コーリャの友人イリューシャは、自分のいたずらのせいで犬のジューチカを死なせてしまったと考えています。コーリャはそのジューチカを密かに探し出し、わざわざ芸を仕込んだ上で(のちの暗い主人公の片鱗)、イリューシャのもとに連れてきます。
ジューチカとペレズヴォンは同一の犬なのか?
ドストエフスキー研究界隈ではこの議論がなされてきたらしい。
山城むつみがジューチカとペレズヴォンが別の犬だという前提からカラマーゾフ論を書き、東浩紀がそれに乗っかってドストエフスキー論を書いたことで、日本でもこの観点は有名になりました。
ペレズヴォンとジューチカ
結論をいえばジューチカとペレズヴォンは同一の犬です。
そもそも1ヶ月かそこらでジューチカと似た同じ犬(片目が潰れていて左耳が裂けている)を用意するのは不可能ですからね。せめて半年~1年の期間があればまだわかりますが、ジューチカ事件のすぐ直後に別の犬を用意するのは無理でしょう。
じゃあペレズヴォンとジューチカの同一性を疑う人が単に的外れな読解をしているかというと、かならずしもそうとは言い切れない部分もある思います。ドストエフスキーは明らかにそういう読解ができるような含みを持たせているんですよね。
なぜ作者はそんなことをしたのか?
おそらくあるテーマ性を響かせようとしたのだと思います。そのテーマとは「ヨブ記の結末を肯定できるか」というもの。人間の次元を超えた神人(キリーロフやニーチェの人神ではなく)に到れるか、宗教的境地を達成できるのかと言いかえてもいいです。
ヨブ記の結末を受け入れることはできるのか
ヨブ記は旧約聖書に収められた物語で、ドストエフスキーは監獄に収容されていたときにその真価を味わったといいます。彼は終生この物語を大切にします。
ヨブ記のオープニングは神と悪魔がヨブをめぐって会話するんですね。神からしたらヨブは自慢の人間。悪魔は「本当にヨブがそんなすごいのか、試練にあわせてその信仰心を試してやってごらんなさい」といいます。
で、ヨブはいろいろな試練にあい、家族を含めてすべてを失うことに。さすがのヨブも境地がゆらぎますが、最終的には信仰に復帰。神はそれに満足し、新しい別の家族をヨブに与え、ハッピーエンドとなります。
柄谷行人の指摘を待つまでもなく、これを読んだわれわれは「なにこれ」と思うんですよね。
新しい家族を与えられたといいますが、元々のヨブの家族はどうなったのでしょうか?
ヨブはこれに納得できるのでしょうか?
そして仮にヨブが納得したのだとしても、ヨブをめぐる神と悪魔のゲームのせいで不幸になった当の家族たちの苦しみはこのハッピーエンドで報われるのでしょうか?
ヨブ記が物語としてお粗末だからこんな構成になったと考えることもできます。
しかし、これが宗教的境地のシンボルとして描かれている可能性もあるんですよね。
個の原理で動く自我(エゴ)からの完全な脱却。自分がまったく異なる原理をもった自分へと新生し、まったく異なる原理をもった新しい世界で、すべての不幸が消滅すること。
おそらくドストエフスキーはそのような次元でヨブ記の結末を読んだのだと思います。そしてそれを肯定したいと望んだのでしょう。
『カラマーゾフの兄弟』にはこのヨブ記の結末を想起させる含みがそこかしこに見られます。
ゾシマ長老の回想パートには直接的な言及があります(米川訳は漢字の変換がめんどくさいんで新潮文庫から引用)。
神はヨブをふたたび立ち直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供たちを愛している。だが、「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、どうして新しい子供たちを愛したりできるだろう?どんなに新しい子供たちがかわいいにせよ、その子たちといっしょにいて、はたして以前のように完全に幸福になれるものだろうか?」という気がしたものだ。だが、それができるのだ、できるのである。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳)
またイリューシャは父に向かって次のように言います。
「パパ、泣かないでよ……僕が死んだら、ほかのいい子をもらってね……みんなの中から自分でいい子を選んで、イリューシャって名前をつけて、僕の代わりにかわいがってね……」
(前掲書より)
犬のジューチカとペレズヴォンをめぐる微妙なニュアンスも、このテーマ性を反映したものだと捉えるのが適切でしょう。
山城むつみや東浩紀は、ヨブ記の結末を肯定する方向でカラマーゾフ論を書いていました。
でもはっきりいって、彼らは頭の体操をしているだけですよね。実際に自分の家族やペットが神に奪われて、のちに新しい別の個体をプレゼントされ、それでハッピーエンドになるかといったら無理でしょう。
イワン・カラマーゾフがいうように、そんな天国には入場拒否するのが普通の人間です(大審問官パートが人気なのは読者がイワンに自分自身を見出すから)。
しかし宗教の次元を考慮すると、それは不可能とは言い切れなくなります。
といってもドグマティックな信仰で他の感情を圧殺し幻想の世界に生きつつ理不尽を耐えるとかそういうことではなく、こことは違った原理の世界に、これとは違った原理をもった自分たちが現実に新生する可能性を悟ることをいいます。個の原理が破られ、大我の次元で平行線が交わる可能性。
キルケゴールがいうように「神を信じるとはいっさいが可能であることを信じること」。ヨブ記の肯定といっても、この次元の話です。個の原理に住んだままあれを肯定するのは世迷い言ですから。
ドストエフスキーの作品は現世の不幸にスポットライトを当てまくるわりにはなぜか絶えず希望を感じさせますが、それはこの「(イワン曰く)あの世」の予感を作中に浸透させているからだと思われます。
逆にいうと、もし宗教的次元が夢幻でしかないのなら、大審問官が正しいのです。ドストエフスキーはぬるさを許さない人ですからね。ヒューマニズムだとか道徳哲学だとか、そんなちっぽけな武器でこんな不幸だらけの世界を肯定できるわけがないだろうと思っているわけです。
もし神が存在しないのなら、大審問官的なディストピアを作り、人間の自由を圧殺し、すべての苦痛が排除された幸福な世界を目指すことが最善の道になります。
『カラマーゾフの兄弟』続編の主人公はコーリャか
森有正が『ドストエーフスキー覚書』でいうように、コーリャは小さなスタヴローギンです。
世界から隔絶し、自我を肥大化させ、すべてを自我の統制下に置こうとする志向をもった人物。彼はすでに社会主義者を自称しています。
ラスコーリニコフ、スタヴローギン、イワン・カラマーゾフといった暗い主人公の系譜に位置するのがコーリャ(スタヴローギンと違うのは、コーリャは幼いうちにアリョーシャに出会ったということ)。
『カラマーゾフの兄弟』は続編が構想されていたといいますが、そこではおそらくコーリャが主人公級の扱いをされたのだろうと思います。
続編ではテロリスト集団による皇帝暗殺を扱う内容になったと予測されていますが、それを実行するのはコーリャだったのでしょう。『カラマーゾフの兄弟』の時点で「大砲」や「火薬」といった暗喩が散りばめられていますからね。
アリョーシャが皇帝暗殺の実行犯になるといった予想をする人もいるようですが、それは無理があります。
むしろアリョーシャは、コーリャの行動に対して「沈黙の接吻」を与えるのではないでしょうか。
世間(地上のロジック)はそれを皇帝暗殺の黙認と受け止め、テロリスト集団の黒幕としてアリョーシャが処刑される可能性はあります。
婚約者のリーザは本作の時点で悪魔の子に変身してしまいますし(ゾシマの死をきっかけにホフラコーワ夫人とリーザはダークサイドに傾く、アリョーシャもグルーシェンカとの邂逅がなければそうなってた)、アリョーシャは前途多難としか言いようがない状況。
しかしそこにゾシマ長老がアリョーシャに命じた「俗界に出ること」の意味があるわけですね。大審問官にいわせればこのような不幸や苦労は消去されるべきバグにすぎないのですが、逆にゾシマやアリョーシャの信仰は苦しみに意味を見出し、それを世界の肯定へとつなげていくわけです。