『地下室の手記』ドストエフスキー文学の隠れたコア【書評】

2021年8月27日ドストエフスキー

ドストエフスキーの『地下室の手記』(光文社古典新訳文庫)を読みました。

今回で3回目。最初に光文社バージョンで読み、次に新潮文庫の江川訳、それから今回また光文社の新訳で読み直したかたち。

この本に関しては光文社古典新訳文庫の訳のほうが新潮文庫よりもいいと思います。原作の荒々しいパワーがうまく表現されている感じ。一人称も江川訳が「ぼく」なのに対して、こちらは「俺」で統一されている。

 

この本の主人公(地下室住人)に、自分自身と似ている面を見いださない人は幸せです。残念なことに、僕は主人公に共感できるところがけっこうあります。

この本は第1部と第2部がわかれているのですが、そのつながりを理解するのがむずかしいと思う。どうなっているのか正直よくわからない。

まずはジョセフ・フランクのドストエフスキー伝を手がかりにして、それぞれの部を簡単に整理してみましょう。

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第1部は合理主義への批判

第1部は現在の主人公の語りです。合理主義への批判がその基本トーン。

標的にされるのはチェルヌシェフスキーが書いた『何をなすべきか』という当時のベストセラー小説。これは「理性的エゴイズム」を標榜しており、各人が自分の欲望を合理的に追求すれば世界は良くなっていくという楽観的な思想が特徴です。

東浩紀が『観光客の哲学』で指摘したように、チェルヌシェフスキーのこの思想は現代のグローバリストたちに通じるものがありますね。きわめて「進歩的」な考えなわけです。

 

そして『地下室の手記』の主人公は、その思想を批判しまくります。

主人公が述べるマゾヒズム的な志向も、その文脈で読まなくてはなりません。単におかしな性癖を自慢しているとかではなく、「人間はこんなにわけのわからないことをしでかしてしまえるんだぞ」と合理主義者たちに見せつけて、彼らの哲学を反駁しようとしているわけです。

難しいのは、この地下室住人の主張がどこまでドストエフスキー本人の考えと一致しているかということ。

たぶんほとんど一致しているんじゃないかとは思うんですが、どうでしょうかね。

 

過去の自分たちを批判する第2部

『地下室の手記』はここからひねりが加えられて、第2部では過去の主人公のエピソードが語られます。1840年代の主人公のエピソードです。

1840年代のロシア人エリートの批判がその主題。過去のドストエフスキー自身もそのなかに入っています。

1840年代は空想的な理想主義がロシア人エリートのあいだで蔓延していました。西洋から入ってきた進歩的な思想を受け売りし、それを吹聴するような。読書に耽溺し、現実の社会から遊離してしまっているところがポイントになります。

第2部の主人公は1840年代のエリートを戯画化したものにほかなりません。その主人公の破滅を描くことで、過去の自分たちを批判しているわけです。

リーザという女性が自閉的なエゴイズム打ち破る原理をもたらすのですが、主人公はそれに応えることができず、地下室へと滑り落ちていきます。

その行き着く先が第1部の主人公というわけです。

 

第1部と第2部の関係はどうなっている?

ここでよくわからないのが、第1部と第2部の関係。

第2部では過去の地下室住人が批判されたのでした。そしてその行き着く先の未来(第1部)で、地下室住人はチェルヌシェフスキーの合理主義を批判している。

批判されるべきものがチェルヌシェフスキーを批判するという、なんだか難しい構造になっているわけです。

ひょっとすると地下室住人も成長しているのかもしれません。第2部の主人公が1840年代のドストエフスキー本人だったように、第1部の主人公は現在のドストエフスキーなのかもしれない。

 

『地下室の手記』はドストエフスキー文学の転回地点となった重要な作品であり、その威力は現代においてむしろいや増していると思います。今や世界中、地下室住人だらけですからね。

ジョセフ・フランクが指摘するように、本作をドストエフスキーが意図した文脈から抜き出して理解するとその真の意味を理解できなくなってしまうとは思います。

とはいえ、作品自体のもつ異常なパワーは19世紀ロシアでなくても発現します。