『白夜』初期ドストエフスキーの隠れた名作
ドストエフスキー初期の隠れた名作『白夜』。
ドストエフスキー再読プロジェクトの一環として、光文社古典新訳文庫バージョンを読み返しました。
光文社古典新訳文庫版は他にも重要な文章が収められているので、読むならこのバージョンにすべき。他の収録作は以下の通り。
・キリストのヨルカに召された少年
・百姓のマレイ
・おかしな人間の夢
・1864年のメモ
最後のメモ以外はいずれも『作家の日記』に挿入されている小品です。『作家の日記』はドストエフスキーの時事評論みたいなテキストで、本人の主張がダイレクトに出ている点が特徴。小品にもそれが表れています。
最後のメモは妻のマーシャが亡くなった直後に書かれた文章。ここにもドストエフスキー本人の思想が強く表れています。
ドストエフスキーという人は人物造形が上手すぎるせいで、どれが本人の本音なのかがわからなくなりがちですが(ポリフォニー性)、これらの小品を読むとドストエフスキー自身の思想がつかめます。
『白夜』の内容をざっくり紹介
ドストエフスキーの『白夜』は、彼の初期の中編小説で、ロマンチックで幻想的な雰囲気を持つ作品です。
発表されたのは1848年。ドストエフスキーが『貧しき人びと』で文壇に登場した直後の作品にあたります。
ペテルブルクの短い夏のあいだに体験される「白夜(太陽が沈みきらず夜が白く明るい現象)」という自然現象を背景に、孤独な青年と一人の女性との短い邂逅を描いています。
物語の語り手は名もなき「夢想家」です。彼は人付き合いが苦手で、現実よりも空想の世界に生きているような青年。彼は毎晩、街を歩いては物思いにふけっています。
そんな彼がある夜、涙を流している若い女性ナースチェンカと出会うことから、物語が動き始めます。彼女は複雑な事情を抱えており、かつて愛した男性の帰りを待っているところでした。夢想家は彼女を励まし、親身になって話を聞き、次第に彼女に惹かれていきます。
数日間のあいだにふたりは心を通わせていきますが、ナースチェンカのもとに突然、かつての恋人が戻ってきます。
結末は切ないものです。ナースチェンカは元の恋人のもとへ戻り、夢想家は再び孤独に戻ります。しかし彼は、ほんの短いあいだでも心が通い合ったことを「一つの幸福」として胸にしまい、受け入れるのでした。
この作品の個性は、幻想的なペテルブルクの夜の描写、そして若者特有の繊細な感情が丹念に描かれている点にあります。
ドストエフスキーの重厚で哲学的な後期作品とは異なり、軽やかで抒情的な筆致が印象的。とはいえ、孤独、幻想と現実のギャップ、自己犠牲といった、後の大作にも通じるテーマがすでに芽を出しており、作家の原点を知るうえで興味深い作品でもありますね。
それにしても、ドストエフスキーは孤独な夢想家の描写が上手いです。
同じようなタイプの人間なら、まるで自分のことを書かれているように感じるはず。
たとえば以下のような場面。
あのねえ、今の僕は、かつてそれなりに幸せを感じたことのあるあちこちの場所を思い出しては、一定の時期にそこを訪ねるのが好きなんですよ。もはや永遠に過ぎ去ってしまった過去に合わせて自身の現在を築き上げるのが好きなんですね。それでしょっちゅう、影のように、何の必要も目的もなしに、ペテルブルグのひっそりとした横町だの、表通りだのを物憂げに、悲しそうな顔で彷徨い歩いているのです。
(ドストエフスキー『白夜』安岡治子訳)
やはりドストエフスキー本人もこういうタイプの人間なのでしょうか。いくら天才でも、他人を観察しただけで本作のような文章が書けるとは思えないです。
『白夜』はどのように評価されてきたか
多くの批評家は、『白夜』をロマン主義の系譜に属する作品として評価しています。
とくに、主人公が現実から逃避し、内面の幻想の世界に浸る姿は、バイロン的・プーシキン的な感傷主義と共通するとされます。
文学史的には、ドストエフスキーが後年のようなリアリズムや深い心理分析に至る前の、初期の感傷的傾向を象徴する作品として位置づけられています。
フランスの批評家アンドレ・ジッドは、『白夜』のような初期作品に漂う感傷性について、「このようなナイーヴな心の震えは、ドストエフスキーの中でも貴重な一面を見せている」と肯定的に捉えました。
20世紀の批評家たちは、とくに夢想家という主人公の人物造形に注目しました。彼は外界との関係を築くことができず、内面の世界に逃げ込みながらも、愛という現実の感情に触れて深く傷つく存在です。
この「夢想家」は、のちの長編に登場する暗い主人公たちへと発展していく可能性を秘めていて、ドストエフスキーの人間観の原型とも見なされています。
文学者ミハイル・バフチンは、「ドストエフスキーの全作品に通底する〈対話的意識〉の萌芽が、夢想家の語りにも表れている」と述べました。つまり、彼の内的独白がすでに他者との葛藤や関係性を予感させている、というのです。
『白夜』は、都市ペテルブルクの幻想的な風景を背景にしています。この点から、同時代のゴーゴリの『ネフスキー大通り』などと並んで、都市と孤独をテーマにした「ペテルブルク文学」としても注目されてきました。都市における疎外感、群衆のなかの孤独、というテーマは、近代文学全体の先駆けとも言えます。
一方で、批判的な見方も存在します。たとえば、のちの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などに見られるような哲学的深度や宗教的葛藤はまだ浅く、「甘ったるいメルヘン」に近いとする否定的な評価もあります。
一部の批評家は、『白夜』をドストエフスキーらしからぬ作品として、「彼がまだ自分のスタイルを確立する前の未成熟な試み」と見なしています。
白夜はポジティブな小説か?
物語のラスト、夢想家である主人公の夢は、現実に打ち砕かれてしまいます。
この作品にはどのようなニュアンスが込められているのでしょうか?
訳者はポジティブな意味を汲み取っています。孤独な魂同士が、「心の隣人」となりえた話として。
ドストエフスキーの作品を「邂逅」という観点で捉えたのは森有正でした(『ドストエフスキー覚書』)。訳者はこの視点で「白夜」を評価しているといえます。
おそらく訳者はこの線にそって文庫の収録作を選んだのでしょう。「百姓のマレイ」では少年ドストエフスキーとマレイが、「おかしな人間の夢」であは主人公の男と貧しい少女が、「心の隣人」となる瞬間が描かれています。
そして最後の「メモ」では、それを総括するドストエフスキーの思想が綴られる。
一方で気になる描写もあって、あとがきによると、ドストエフスキーは夢想家の生き方を否定しているんですね。
そして物語の最後、主人公の周りの世界が色あせていく描写が書き込まれています。非常に不気味な予感を漂わせる文章です。
おそらく本作の主人公は、『地下室の手記』の主人公へとつながるのだと思います。なんらかの作用で自我の世界が打ち砕かれないかぎり、白夜の主人公の未来は地下室住人になってしまう。
必ずしもポジティブなだけの作品とはいえず、このような不気味なニュアンスも込められている気がします。
ドストエフスキーのおすすめ作品は、以下の記事でまとめて紹介しています↓