フィヒテとシェリングをわかりやすく解説『カントからヘーゲルへ』【書評】

2020年11月29日カント, ヘーゲル

岩崎武雄の『カントからヘーゲルへ』を久々に読了。日本のカント研究界を支配した岩崎が、ドイツ観念論を語る本です。異常な切れ味は本書でも健在。

フィヒテとシェリングの後期思想を解説している点が特徴ですね。普通は前期の思想しか解説されないですから。

なぜか?よくある哲学史のようにカント→フィヒテ→シェリング→ヘーゲルの系譜を発展的に捉えると、フィヒテとシェリングの後期思想は持つべき場がないんですよね。フィヒテの前期思想を批判してシェリングが登場し、シェリングの前期思想を批判してヘーゲルが登場し、みたいな描かれかたをするので。

しかし本書ではフィヒテとシェリングの後期思想にも光が当てられます。とくにシェリングは実存主義の隠れた震源といわれるほど重要とのこと。

ちなみにカントについての記述は名著『カント』からの抜粋にすぎないので、カントに興味のある人は『カント』を読んだほうがいいです。

本書でいちばん力が入っているのはヘーゲルについての記述ですが、長くなるので、ここではフィヒテとシェリングについてだけ記録しておきます。

フィヒテの哲学

フィヒテはカントの継承からスタートします。少なくとも本人はカントを正しく継承しているつもりです。

カントの哲学には理論理性と実践理性の区別がありましたよね。しかし冷静に考えてみると、これよくわからないですよね。なんで理性が理論バージョンと実践バージョンのふたつに分かれているのか?そもそもこれらって本当に同じ能力なのか?

なんとも奇妙な区別なわけですが、フィヒテはここに着目します。同じ理性というからには、両者はもっと明確に統合されていなければおかしい。理論理性と実践理性の統合、これがフィヒテの狙いです。

どうやって統合するのか?実践理性を理論理性のベースに置くことによって、です。

まず実践理性が存在する、それが拡張の過程で抵抗にあう、その抵抗を見つめるときに理論理性が発動する。これがフィヒテの根本的発想です。

自我(理性と同じようなニュアンス)は己を保持しどこまでも拡大していこうとする性質があるんですね。しかし世界には自我とは別の存在、すなわち非我もまた存在しています。自我はそれにぶつかって跳ね返されます。自分がぶつかった対象物を観察するときに発動するのが理論的な自我です。

これによってフィヒテの哲学はきわめて実践的な性格が強くなり、理論理性は実践的自我からの派生物のような存在となっていきます。

 

また興味深いことに、フィヒテは自我を二重の存在として捉えます。ひとつは僕たちの経験的な自我。もう一つはその経験的な自我の根底にある絶対的な自我です。

フィヒテいわくこの絶対的自我はべつに神秘的な存在ではなく、経験的な要素をすべて捨象していったときに残るものにすぎないとのこと。カントの超越論的統覚がイメージされています。

ところが話はここから込み入ってきます。まず絶対的な自我はどこまでも己を拡張しようとする。事行という有名な概念はこれを指しています。そして、経験的な自我は絶対的自我を理念として目指すとフィヒテは言い出します。

岩崎武雄はこれを批判します。絶対的自我が超越論的統覚なら、それは理念とはなりえないはずだといって。統覚は主観の同一性を保証するものにすぎないわけですから(そもそも実体なのかどうかも怪しい)、これが目指すべき理念になるというのはおかしいと。

フィヒテの語る理念としての絶対的自我にはなにか神的な性質が発生しており、ここでフィヒテはカント哲学の境界を踏み越えているんですね。

フィヒテの後期思想

実際、フィヒテの後期思想はこの矛盾を解消する方向に向かいます。

絶対的自我は絶対者(要するに神)そのものと捉えられ、経験的な自我はこの絶対者との合一による浄福を目指すとされるのです。

なにか東洋思想的な趣さえ出てきていますが、前期にあったロジカルな矛盾がすっきりと解消されていることは確かですよね。

ただ、ここでの絶対的自我がカントの超越論的統覚ともはやまったく別物であることは明らかです。

 

シェリングの哲学

シェリングはフィヒテから出発します。両者はどこが違うのか?

フィヒテにおいては絶対的自我が二重の意味を帯びていたのでした。一方では僕たちの経験的の根底に存在するもの(カントのいう超越論的統覚)を意味し、もう一方では経験的自我が理念として目指すべき対象として語られる。

シェリングはここをスッキリさせます。シェリングにおいては絶対的自我は最初から無限の神的自我として考えられているのです。

すべての根底にこの絶対的自我がある。経験的自我も、自我ならざるものも、絶対的な自我が生み出したものとして捉えられます。スピノザの神をイメージするとわかりやすいですね。

フィヒテはあくまでも自我(二重)と非我の二元論でした。シェリングは絶対的自我の一元論です。

シェリングの考えでは自然の根底にも絶対的自我があることになります。フィヒテにとって自然界は自我に対して抵抗する非我でしたが、シェリングにおいては自我も自然界も絶対的自我のパーツにほかなりません。

ということは、自然もまた絶対的自我の精神的な原理によって統一されていることになります。シェリングによると、この精神的原理はある目的をもって自然を展開させます。その目的とは意識の発生です。

ご覧の通りこれはヘーゲル哲学の元ネタですね。ヘーゲルいわく歴史には目的論的構造があり、それは自由な存在(人間)の自由な意識を目指して進むのでした。

あらゆる存在者の根底に無差別な一としての絶対者を置く。これがシェリングの同一哲学です。

ヘーゲルはこれを批判し、運動する絶対者からなる精神現象学を構想します。いわばあらゆる存在者の根底に差異を置くアプローチですね。

シェリングの後期思想

シェリングの後期哲学は実存主義の先駆けと言われます。本質存在を重視するそれまでの西洋哲学に反旗を翻し、事実存在に光を当てたからです。

本質存在と事実存在とはなんでしょうか?

文字通り、存在者の本質が本質存在です。いわば「~である」が本質存在。神とは~な存在であるとか、哲学とは~なものであるみたいに言われるとき、その「~である」がものごとの本質=本質存在です。

一方で「~がある」が事実存在です。日本人からしたらこっちのほうがわかりやすいですよね。日本人が存在というとき、それは事実存在を指します。~があるとか、~がないとか。押入れの奥に神学大全があるというとき、その「~がある」が事実存在です。

そして興味深いことに、西洋哲学史においては存在はまず本質存在を指してきたんですね。日本人からするとまったくピンとこないのですが、古来の西洋哲学史において存在といったらまずものごとの本質を指すのです。

シェリングはこれを批判し、哲学は本質しか考えてこなかったといいます。大切なのは本質よりも、むしろ存在者があるというその事実存在であるのに、と。

こうして事実存在を重視するのが後期シェリングの積極哲学です。事実存在を訳せば「実存」となりますね。

この発想が後の実存主義につながっていくわけです。とはいえサルトルらの実存主義が問題にするのは人間の実存であり、シェリングが問題にしたのは神の実存でしたが。ちなみに実存哲学の大ボスたるキルケゴールがシェリングの講義に出席していたことは有名な事実。

いずれにせよシェリングの思索は非常に強烈であり、現代の理論物理学にも通じるような射程をもっていると思います。