『自然宗教をめぐる対話』ヒュームならこれを最初に読むべき【書評】

バートランド・ラッセルいわく、ヒュームは哲学におけるひとつのデッドエンドということです。

ロックやバークリーの経験論を行き着くところまで行き着かせ、それを内側から爆破してしまった思想家。

その極端な懐疑論を理知的に乗り越えることは不可能ではないか。カントやヘーゲルの哲学もヒュームの問いかけを解決できていない。

ラッセルは『西洋哲学史』のなかでそのように言っています。

 

19世紀以降、哲学は感情や想像力を重視するようになります。

それはルソー(ヒュームの友人!)に始まり、ショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデガーと深化していきました。

これはヒュームがもたらしたデッドエンドの当然の帰結なのかもしれません。

この『自然宗教をめぐる対話』(岩波文庫)は、そのヒュームが書き残した宗教論です。

プラトンのような対話篇を採用しているところが特徴。3人の登場人物の議論で、話は進んでいきます。

自然宗教とは何か?

自然宗教とは、簡単に言ってしまえば神を論証できるとする立場です。神には合理的な基礎があって、それを理性で証明できるのだと。

ヒュームはこの自然宗教を2つにわけます。

ひとつは経験的(アポステリオリ)な論証による自然宗教。もうひとつは推論(アプリオリ)による論証の自然宗教です。

 

ヒュームはそのどちらをも批判していきます。

アポステリオリな論証に対しては、因果推論を誤って応用している点を批判します。

AのあとにBが起きる。これが何度も何度も繰り返されると人間はそこに因果関係を見出す。

これがヒュームの独特の発想ですが、神の世界創造は何度も繰り返されるできごとではないので、そこに因果推論を当てはめるのは間違っているというのですね。

 

アプリオリな論証については、そもそも根本的にナンセンスだという批判があたえられます。

存在するかどうかは経験によって確認されるもので、論理的な論証をいくらやっても答えにはたどりつかないと。

これはカントに引き継がれる考え方で、神の存在論的証明への批判にもなっています。

 

ヒュームの真意はどこにある?

『自然宗教をめぐる対話』は文字通り対話篇です。

しかしこれが曲者。ヒュームの真意がどこにあるのかわかりづらいのですね。

プラトンの対話篇ならわかりやすいのです。プラトンの対話篇がダイアローグだというのは名目上のことであって、実質的にはモノローグですから。

目的地がはっきりあって、そこを目指す。ソクラテスの背後に、プラトンという作者の主体がはっきりと見える。

 

しかしヒュームの場合、作者の主体がなかなか浮かび上がってこないのですね。

いちおうフィロという名の懐疑論者がヒュームに近いのでしょうけど、しっくりこない部分もあります。

研究者のあいだでも意見はわかれているらしい。

人間の主体は幻にすぎず、実際には知覚の束があるだけだとヒュームは言いましたが、それが本書の構成にも現れている気がします。