理論社会学の全体像を掴むにはコレ 大澤真幸『社会学史』【書評】
大澤真幸が社会学の通史を書きました。新書にもかかわらずページ数は約630ページ。常軌を逸した分量です。
社会学に興味のある人が、最初に読む本としておすすめです。
どの分野でもそうですが、まずは全体を把握することが重要なんですよね。全体の流れをつかんでおくと、個々の議論に入りやすくなるからです。
本書については内容の偏りも指摘されますが、最初に全体像をつかむためのアイテムとして見れば、とくに問題はないかと思います。
面白いことに、この本は狭義の社会学だけでなく社会学の前史まで扱っています。
特に重要なのは古代ギリシアのアリストテレス、近世ヨーロッパのグロティウス、そして社会契約説で知られるホッブス、ロック、ルソーです。
また「社会に関する思考ではあるが社会学でないもの」を知ることで、社会学の特徴を理解できます。
本書を読むと、以下のような問いに答えられるようになります。
・なぜアリストテレスの社会哲学は社会学ではないのか?
・なぜロックとルソーの社会思想は社会学ではないのか?
・なぜホッブスの社会思想が社会学前史においてもっとも社会学に近いのか?
個々の社会学者の学説もわかりやすいです。文体はですます調。講義を受けているような感じです。
ところどころで著者による批判や小ネタが入り、それが読者の理解を助けます。論点を多角的な視点で捉えることができるようになるからです。こういう批判や雑談を交えたスタイルというのは、実は単なる要約よりもわかりやすいのです。
本書を読めば、以下のような問いに答えられるようになります。
・なぜデュルケムにおいて社会と宗教は等しいのか?
・なぜウェーバーは宗教を合理的なものと考えたのか?
・なぜパーソンズは功利主義を批判したのか?
・なぜルーマンはハーバーマスとの論争について「なにも得るものがなかった」と言ったのか?
ニクラス・ルーマンがアリストテレスを知識社会学で料理
個人的に、ニクラス・ルーマンによるアリストテレス解釈に触れている個所がとくに面白かったですね。ルーマンによる知識社会学の実践といった感じ。
アリストテレスの学問はすべて目的論的構造をもっています。
もっとも望ましい状態がピラミッドのいちばん上に来て、その他の状態はピラミッドの下部に位置づけられる。頂点以外の状態はゴールとしてピラミッドのいちばん上を志向するというわけです。
これは彼の社会思想についても当てはまります。都市国家(ポリス)がピラミッドのいちばん上に来て、それ以外のさまざまな社会体制はピラミッドの下部に置かれます。
さまざまなタイプを細かく分類し、それをピラミッド状に配置する。あらゆる要素はピラミッドの頂点をゴ-ルとして目指す。これがアリストテレス哲学の特徴です。
20世紀ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンによると、これはアリストテレスが暮らしていた都市国家の社会構造が、彼の理論に反映された結果にほかなりません。
アリストテレスは古代ギリシアの都市国家に暮らしていました。ではその都市国家はどういう社会体制を敷いていたのでしょうか?
実は当時のギリシアは、身分の序列がある成層社会だったのです。ピラミッド型の社会システムですね。
そしてピラミッド型の目的論的哲学は、このような社会と相性が抜群です。この古代ギリシアの社会構造がアリストテレスに影響を与え、その思想を形作ったとルーマンは指摘しているわけです。
知識社会学とは、学問や理論がどのような社会構造を背景にして誕生したのかを解き明かす社会学ジャンルです。あらゆる知識を、それが生産された社会構造に還元して考えるわけですね。
ルーマンは知識社会学者ではなく社会システム理論を扱う理論社会学者ですが、彼のアリストテレス解釈は知識社会学の実践現場といえる気がする。
ちなみに知識社会学の創始者はカール・マンハイムといわれています。マンハイムの代表作は『イデオロギーとユートピア』(中公クラシックス)です。
もっとさかのぼれば、カール・マルクスの『ドイツ・イデオロギー』に知識社会学の端緒を見ることも可能かもしれません。そうだとすると、戦前日本の哲学者、戸坂潤が書いた名著『日本イデオロギー論』も知識社会学の仕事だといえるかも。
ルソー問題とは何か?【一般意思の見つけ方】
ルソーの一般意思についての説明も面白かったですね。ルソーは以下の3つの意思概念を使い分けたことで有名です。
・特殊意思
・全体意思
・一般意思
まず特殊意思。これは簡単で、個人が持つ意思のことです。こうしたい、ああしたいと、誰もがそれぞれの意思を持っていますよね。それが特殊意思です。
次に全体意思。これもイメージしやすい。特殊意思を足し算すれば全体意思になります。たとえば民主主義社会で選挙をし、多数決で意見を決める。いちばん票の多かった意見が全体意思です。
では一般意思とはなんでしょうか?
ルソーによると、一般意思は多数決で決まる共同体の意思です。でもそれって、全体意思と何が違うのでしょうか。
ルソーにはユートピア的な感性があります。原初において人間は自由であり、人々のあいだに争いはなかった、というような。ルソーのなかでは、人間の共同体はもともと完全な一体感のあるものなのです。争いや反目は不自然なものであり、自然にしていれば完全な一体感が実現できる。
そしてこの完全な一体感をもつ共同体の意思、それが一般意思です。共同体というひとつの個体が意思をもつ。その純粋な意思が一般意思というわけです。いわば一般意思というのはもとから存在しているのですね。それをどう探し当てるかという話になる。
これだけ聞くと典型的な全体主義思想のように思えますが、そう簡単にはいかないのがルソーです。
純粋な共同体の意思すなわち一般意思をどうやって見つけ出すか。ルソーはこの問いに対して、「バラバラな個人が多数決を取ることによって」と答えるのです。一般意思をあぶり出すためには、個人は徹底的にバラバラでなくてはならない。
党派を組んだり、人に相談して意見をすりあわせたりしてはいけません。それでは僕たちの生きる民主主義社会の全体意思になってしまいます。
そうではなく、バラバラな個人がバラバラなままで意思を表明し、それを集計する。すると多数決で一般意思が出てくるというのです。
大澤はコンドルセの定理を使ってこのメカニズムを説明しています。詳しくはそちらを参考にしてほしいのですが、純粋な共同体の唯一の意思を見つけるために、個人はバラバラでなくてはいけないというひねり、ここにルソーの複雑さがありますね。
ルソー問題
ルソーは徹底的なまでに自由主義な思想家にも見えるし、全体主義を肯定する思想家にも見える。どっちが本物のルソーなのか?
これをルソー問題といいます。
たとえばポパーはルソーを全体主義の肯定者だとして批判しています。かと思えば、明治時代の日本ではルソーが自由主義の思想家として持ち上げられました。
共同体の唯一意思を突き止めるためには個人がバラバラでなくてはならないとする複雑な論理が、このルソー問題の根元だといえそうです。
ちなみに思想家の東浩紀は、ルソーの一般意思を考察した『一般意思2.0』という面白い本を出していますね。現代のテクノロジーを使えば、バラバラな個人の意思をそのまま集計するというルソーのアイデアが実現できるのではないか、という方向性で考えています。
うつ病がマックス・ウェーバーを覚醒させた
マックス・ウェーバーの病気についても印象的な記述がありました。
ウェーバーが遺した偉大な業績は、すべて深刻なうつ病にかかって以降のものだというのです。
若きウェーバーは父にならい、法学の道を進みます。ベルリン大学で法学博士になり、30代の前半にしてハイデルベルク大学の経済学部教授に就任。まさに大秀才という感じ。たまにこういう異常な人いますよね。
ただ、我々の知る天才ウェーバーはまだ現れていません。この時点ではあくまでも秀才の範囲であり、後世まで名の残るような天才的な仕事はしていないのです。
ところが教授になった直後に歯車が狂い始めます。そして、ウェーバーはむしろそこで覚醒するのです。
きっかけはハイデルベルクまでウェーバーを訪ねてきた母に、父が強引についてきたことでした。ウェーバーは家族たちの目の前で父を糾弾したといいます。怒った父はそのまま家を飛び出しロシア旅行に出掛けるのですが、旅行先で急死してしまいます。
その直後からウェーバーのうつ病が始まりました。以後、死に至るまでずっとウェーバーのうつが完治することはありません。教壇に立つこともままならず、せっかく就任したハイデルベルク大学教授の仕事もやめてしまいました。
しかし興味深いことに、ウェーバーがその才能を発揮するのはここからなのです。
寝たきりになるほどの重いうつ病の合間を縫って、ウェーバーは創造性を爆発させます。後世にまで残る偉大な仕事を鬼気迫るスピードで完遂していくのです。
どうしてこれほどの覚醒がもたらされたのでしょうか?よくわかりません。
しかしうつ病にかかった後のウェーバーは、典型的な天才の姿だといえるでしょう。ドストエフスキーやニーチェ、日本でいえば夏目漱石など、天才的な人間は精神的な病をエネルギーに変えるという共通点があるように思います。
ウェーバーが病気にならなかったら、稀代の大秀才として学者人生をまっとうしたはずですが、世界的な名声を誇る天才的な作品をいくつも残すことなどなかったでしょう。
そこにどのような心理学的ないし生理学的メカニズムが働いているのかはわかりませんが、精神の病や不幸には、人の創造性に寄与する部分が確かにありますね。
社会学史の本は少ない
理論社会学を勉強するには、まず社会学史の全体を把握しておくのが近道になります。
ところが哲学史などと違い、手に取りやすい社会学史の本はあまり存在しませんよね。
一応新書の形態では、『社会学のあゆみ』という知る人ぞ知る本が出てはいます。
しかしこれは中級者向けの内容で、読みやすくありません。しかも書店にはまず売ってない。
大澤真幸が新書という手に取りやすい形態で社会学史の本を出したことには、学習者にとって大きな意味があると思いますね。
なお社会学のおすすめ本についてはこの記事↑にまとめてあるので、参考にしてみてください。