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クワインの科学哲学をわかりやすく解説【ネオプラグマティズムへ】

2023年11月22日

クワインといえば、20世紀アメリカを代表する哲学者のひとりにしてネオプラグマティズムの旗手。

しかし日本人からすると馴染みが薄く、なにがどうすごいのかよくわからない人でもあります。

野家啓一『科学哲学への招待』を読んでいたらクワインの重要性がわかったので、覚えているうちに整理しておきたいと思います。

 

クワインの業績では「経験主義の二つのドグマ」という論文が非常に有名です。彼の根本思想はこの論文を窓にしてつかむことができます。

論文のタイトルから明らかなように、彼の敵は経験主義(論理実証主義のこと)です。クワインのいう経験主義は論理実証主義のことをいいます。まぎらわしいですがイギリス経験論の話ではないので要注意。

論理実証主義とはオーストリアのウィーン由来の哲学思潮。従来の形而上学を否定し、文法的に意味をなさない命題や経験的に実証されない命題を哲学的に無価値であるとしりぞける人たちです。

彼らはナチスの迫害から逃れアメリカにわたってきます。この論理実証主義がアメリカのプラグマティズムと化学反応することで、20世紀後半のアメリカ哲学は展開していきます。

クワインはウィーンからやってきた論理実証主義を内部から批判し、結果的にアメリカプラグマティズムへと回帰します。これがネオプラグマティズムの始まりです。

 

ではクワインは論理実証主義をどう批判したのか?

彼は論理実証主義が前提とする以下二つのドグマに注目し、それに無効宣言を下すことで体系を破綻させます。

・分析的真理と総合的真理の区別
・還元主義

それぞれくわしく見ていきましょう。

論理実証主義のドグマその1 分析的真理と総合的真理の区別

1つ目のドグマは「分析的真理と総合的真理の区別」です。

分析と総合、これはカント由来の概念です。カントは分析判断と総合判断という対概念を用いました。

分析判断とは主語のなかに述語が含まれているものをいいます。

たとえば「三角形は3つの角をもつ」のような。三角形という主語のなかに3つの角をもつという内容がすでに含まれていますよね。

したがって「三角形は3つの角をもつ」という命題はアプリオリに正しく、このように経験に頼ることなく確定できる真理は分析的真理と呼ばれます。

逆に総合判断とは主語のなかに述語の内容が含まれていないものをいいます。したがってその真理を判定するには経験に頼らなくてはいけません。

たとえば「近所のコンビニはバターコーヒーを売っている」のような。近所のコンビニという概念をいくら分析してみてもバターコーヒーは出てきませんよね。実際にそのコンビニを調べてみてバターコーヒーがあるかどうかを確認しなくてはこの命題が正しいかどうかはわかりません。ゆえにこれは総合判断になります。

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興味深いことにカントは数学を総合的真理と見なします(ほとんどの人は数学を分析的と見なす)。

論理実証主義たちはカントのこの区別を引き継ぎ、それを軸にしてさまざまな議論を展開させました。

 

しかしクワインによると、分析と総合の区別そのものが無効だというのです。

分析判断と総合判断は程度の違いでしかないのであって、そこに絶対的な境界線を引くことはできない。これがクワインの「連続主義」です。

クワインはこれを分析判断の不可能性という観点から論証していきます。循環論法に陥ってしまい、分析判断が分析的であることは十分に示せないというんですね。

なおここは野家の上述書を読んだだけでは理解できず、説明も不可能なので、しっかり理解するにはクワイン本人の著作か他の解説書にあたる必要があります。

その帰結は形式科学(数学や論理学)と経験科学(物理学や経済学)のあいだの絶対的境界線が崩れ、両者があわく結合すること。こうしてクワインの哲学はホーリズム(全体論)の様相を呈してきます。

 

論理実証主義のドグマその2 還元主義

論理実証主義の2つ目のドグマは「還元主義」です。

還元主義とは「有意味な命題は直接的な経験を表す命題にかならず還元できる」とする立場のこと。逆にいうと経験とつながりをもたない命題は無意味ということになり、論理実証主義たちはこうして形而上学を否定したいわけです。

しかしクワインはここにも批判の矢を放ちます。

論理実証主義たちは、個々の命題をピックアップし、それが経験とつながりをもつ「有意味」なものであるかどうかを調べます。

しかしクワインによれば、命題の意味はそれだけを取り出して調べたのではわからないというんですね。個々の命題は分離して単独で機能するものではなく、広大な文脈を背景として、他のさまざまな命題と結びついてその効果を表すものだからです。

個別で見たら間違っているような命題でも、知識のネットワーク全体のなかに置いてみれば実は効果的に機能しているのかもしれない。

また個別の命題と矛盾するような経験データが現れても、その個別の命題を含む知的ネットワーク全体に修正を加えることで矛盾を乗り越えることも可能です。

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実際、観察された経験データと整合する理論体系は複数のものがありえるというのは、もはや自然科学の常識でもあります。

こうしてクワインは、人間の知識を個々の命題ではなく巨大なネットワークを単位として見ていきます。これを「ホーリズム」と呼びます。

 

ホーリズムの立場では、あらゆる命題は経験にさらされ、いつでも訂正される可能性があります。しかしその濃淡が異なります。

知識のネットワークには中心と周縁があって、周縁の知識ほど経験にじかにさらされているからです。周縁の知識(歴史学など)ほど訂正されやすく、中心の知識(数学など)ほど経験によるリセットの可能性は低い。とはいえ、数学や論理学でさえも経験によって訂正される可能性は秘めています。

この立場を押し進めることで、学問のあいだの境界線が薄れていきます。自然科学と哲学のあいだの境界線もなくなり、両者はお互いの知見を自由に動員しはじめます。

実際、現代アメリカの哲学は脳科学とかの知見を動員していますよね。はたから見ると、これって哲学である必要あるのって感じることも多いです。この潮流の直接の源はクワインにあるといえるでしょう。

 

なお上述したように今回非常に参考になった書籍がこれ。

科学哲学を含む理数系のおすすめ本については、以下の記事も参考にしてみてください。

哲学の本

Posted by chaco