『ドストエフスキーの詩学』天才小説家の技術とは【書評】

2021年7月22日ドストエフスキー

ドストエフスキーが駆使する芸術上の技法には、彼以前には見られなかった革命的な形式が使われています。

それを解明する古典的名著が『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)。著者のミハイル・バフチンはロシアの有名な批評家です。

ドストエフスキーはよくその思想的な深さが着目されますよね。しかし思想家であるまえに、彼は芸術家なのです。それも革命的な小説形式を生み出した芸術家です。

バフチンが着目するのはこの芸術技法。思想に焦点が当たることはありません。ドストエフスキー作品の形式を解き明かすのが『ドストエフスキーの詩学』です。

この作品、通読するのは骨が折れます。異なる2つのテーマが混じってるからです。

一つはポリフォニー文学について。もう一つがカーニバル文学についてです。

前半と終盤はポリフォニー論として読めるのですが、中盤にカーニバル文学論が入ってくるためややこしいんですよね。二冊の本が合わさっていると思ったほうがいいでしょう。

ではポリフォニーとは何か?カーニバルとは何か?

ポリフォニーの創始者ドストエフスキー

バブチンによると、ドストエフスキーの小説では作者が神の視点に立っていません。

普通は作者が神の視点に立ち、登場人物や物語のプロットはその視点のなかで動き回るんです。これをモノローグ形式といいます。

しかしドストエフスキーの場合は作者が作中の登場人物と同じ平面に降りてきて、その視点や考えも並列されます。

さらに各々のキャラクターは単一の視点や思想のなかで動き回ることをせず、それぞれが確固とした個性をもったままぶつかり合う。

これがモノローグ形式に対比されるポリフォニー形式であり、ドストエフスキーを彼以前の芸術家から区別する革命的な技術です。

 

カーニバル文学の伝統とドストエフスキー

ドストエフスキーはポリフォニー小説という新しい形式を発明しましたが、過去の文学史の伝統とまったく切り離されているわけではありません。

バフチンは本書の中盤において、ドストエフスキーをある文学ジャンルのなかに位置づけます。このジャンルこそカーニバル文学です。

カーニバル文学は古代ギリシアやローマに発生したジャンルで、プラトンの対話篇などがその起源にあたります。

その伝統が聖書やシェイクスピア、セルバンテスなどに受け継がれ、ドストエフスキーにおいて自らの全盛期を見いだしたという流れ。

ドストエフスキー自身はカーニバル文学を意識していたわけではありません。無意識のうちにそれを吸収し、表現したというのが実際のところ。

ただしカーニバル文学にポリフォニー性はありません。プラトンの対話篇も実はモノローグです。

 

ドストエフスキーの対話論

『ドストエフスキーの詩学』の終盤はドストエフスキー作品における対話のありかたを解明しています。ここもドストエフスキー作品を理解するためには必読。

バフチンによると、ドストエフスキーの小説で展開される対話には、モノローグ同士の会話はありえないといいます。

対話に参加する主体がすでに、二重に分裂しているというんですね。少なくとも対話する主体の片方は分裂している。

 

わかりやすいのは『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンとスメルジャコフの対話。

イワンの声は複数に分裂しており、本人からさえも隠された秘密の声をスメルジャコフは聞き取ります。そしてそれを実行に移す。

スメルジャコフはこの秘密の声をイワンの真実の声だと錯覚しているのですが、実はイワンの声は複雑に分裂している。だからスメルジャコフは後からそれに気づいて幻滅するわけですね。

同じような調子で『悪霊』なども解説されていきますが、分析の鋭さに恐ろしくなります。よくこんなふうに読解できるなと思う。

 

ドストエフスキー作品の登場人物はなぜリアルなのか

ドストエフスキー作品の大きな特徴のひとつに、登場人物の異様なリアリティがあります。埴谷雄高をはじめとして、多くの読者がそれを証言しますよね。

なぜこのような特徴が生じるのか?これもバフチンのヒントをもとに説明できると思います。

バフチンいわく、ドストエフスキー作品に登場するキャラクターは、外的な説明で切り取ることができません。よくあるテンプレートに当てはめて、「この人物はこういう性格をもってこういうことを信じている」とか、「この人物のあの行動はこういう役割を果たしている」とか、きれいにまとめて済ましてしまうことができないのですね。

わかりやすいのは『貧しき人びと』や『地下室の手記』の主人公です。彼らは他人が自分に向ける視線を先取りし。それをいちいち否定して回ります。そういう外的かつ適当な評価で汲みつくせる存在じゃないんだぞと、反抗するのですね。

あるいは『カラマーゾフの兄弟』におけるミーチャの裁判シーンも象徴的です。

頭のいい弁護士とかがたくさん登場して、ミーチャの境遇や心理について語りますよね。「ドミートリーはこういう人物なんだ」という外的な評価が山ほど与えられるシーンです。

実はあれは、彼らの小賢しい評価が空回りしていることを示す場面なのです。もっともらしく見えるどの論評も、ミーチャという人格には届かない。だからアリョーシャは終盤、弁護士を軽んじるような発言を子どもたち相手にするのですね。

 

ドストエフスキーの主人公たちがその深遠な人格を垣間見せるのは、内的な対話の瞬間においてのみです。その例としてバフチンは、スタヴローギンとチーホン、ラスコーリニコフとポルフィーリーの対話を挙げています。

さらに重要なのは、登場人物たちが作者(ドストエフスキー本人)をも退けるところ。

ドストエフスキー作品においては、作者の神の視点のなかでキャラクターが動き回るということがありません。そうではなく、作者が物語の中に入り込み、登場人物たちのあいだに並列されるのですね。

 

そしてドストエフスキー作品の登場人物たちがその作者からも自立する以上、その読者からも自立すると考えるのが自然でしょう。

作者の立場を理解してその視点から見下ろせば、キャラクターの中身を洞察できる。普通はこうなるんですよね。しかしドストエフスキー作品の場合、そのような作者の視点は存在しません。作者が登場人物たちのあいだに並列されているのですから。

キャラクターを見通す外的な視点が存在しない。したがってそこにはつねに謎が残ります。

こちらの解釈に閉じ込めることのできない他者性。おそらくこれが、ドストエフスキー作品に登場する人物たちの放つリアリティの源泉だと思います。作り物というより、こちらに対話を迫ってくる生身の他者に近いのですね。

そう考えてみると、ドストエフスキーの登場人物の濃さを「キャラ立ち」という言葉で表現するのは適切ではないのかもしれません。キャラ立ちとはまさにテンプレートの集合であり、こちらの解釈から逸脱することのない安心そのものですからね。

 

ドストエフスキーの思想を理解したいならベルジャーエフ

この本を読むのは今回で3回目。やっぱり名著です。

バフチンは本書でドストエフスキー作品の形式を問題にしました。

じゃあドストエフスキーという思想家の思想を知るにはどうすればいいかというと、僕はベルジャーエフの『ドストエフスキーの世界観』をおすすめします。

関連:ベルジャーエフ『ドストエフスキーの世界観』【書評】

読んでみたら想像以上に強烈でびっくりしました。現在では入手しづらい本ですが、ドストエフスキーファンには一読を迫っておきたいと思います。