『ドストエフスキーとカント』カラマーゾフと純粋理性批判
ゴロソフケルの『ドストエフスキーとカント』(みすず書房)を読みました。
カントの『純粋理性批判』をカギにして『カラマーゾフの兄弟』を読み解く物珍しいこころみ。
けっこう有名な本だそうです。
ゴロソフケルによると、ドストエフスキーは『純粋理性批判』を意識しながらカラマーゾフを書いていたそうです。
具体的には『純粋理性批判』後半に出てくるアンチノミーの箇所ですね。テーゼとアンチテーゼを対立させて、どちらも無矛盾に成立してしまうことを示し、理性の無力を示すうんぬんのあの箇所です。
著者によるとドストエフスキーはテーゼ側とアンチテーゼ側にキャラクターを配分し、理性の弁証論を再現しているらしい。
そしてアンチテーゼ側に配分されたキャラクター(イワンなど)を崩壊させることにより、ドストエフスキーはカントと対決した…という話の流れになるのですが、このへんよくわからない。
なぜアンチテーゼ側を敗北させることがカントへの批判になるのか?カントは別にアンチテーゼ側を信望しているわけではないですからね。純粋理性批判においては、アンチテーゼだけでなく、テーゼの側も無矛盾に成立します。
またカント個人の性格を見ても、彼はおそらく素直に神を信仰していたタイプの人間ですね。だからこそ信仰を試すような議論にも踏み込めるわけです。
アルセニイ・グリガは『カント』のなかで、「ゴロソフケルはカントをヘーゲルと取り違えたのだろう」と書いているそうですが、ぼくも同じような感覚を覚えました。
波多野精一が言うように、カントは啓蒙主義に足を引っ張られた宗教的思想家ですからね。西洋の理性中心主義の権化としてカントを扱うと、色々と無理が出てくるように思う。
ゴロソフケルの『ドストエフスキーとカント』、記述スタイルがかなり文学的です。そのため、逆に読みづらくなっています。著者の論点を理解することがすごく難しい。
内容も哲学的に高度で、カントを知らない人が本書でカントの主張を理解することは不可能でしょう。
ちなみにカントに入門するのなら、黒崎政男の『カント「純粋理性批判」入門』(講談社選書メチエ)がいちばんわかりやすいです。
そこから石川文康『カント入門』(ちくま新書)、さらに岩崎武雄の『カント』(勁草書房)と進んでいけば、そうとうな水準の理解に達することができます。