『シルバーバーチ』を読んでみた【史上最高の霊的啓示】
アラン・カルデックの『霊の書』、ステイトン・モーゼスの『霊訓』とならび、世界三大霊訓のひとつとされるシルバーバーチ。
英国人の霊媒モーリス・バーバネルに降りてきた高級霊がこの世とあの世の真実を語っていきます。
このバーバネルのエピソードがけっこう面白い。彼は流行りの降霊界に参加するも、退屈すぎて居眠りしてしまったんですね。「やばい寝ちゃったよ」と思って気まずくなっていると、隣の参加者から「あなた睡眠中に霊媒として立派に語っていましたよ」と言われます。
「そんなことあるか?」とスルーしていたバーバネル。で、次の降霊界でまた居眠りします。するとまた睡眠中に霊媒となり高度な内容を語りだしたのです。これがシルバーバーチの霊媒としてのバーバネルの出発。
ちなみにシルバーバーチの正体はインディアンの高級霊とされますが、厳密には違うそう。もっと高級な霊がこのインディアンの霊に降り、そしてこのインディアンがバーバネルに降りてきているという仕組みになっているようです。
直前にバシャールを読んでいたので温度差に驚く。われわれの目線に立ってくれているというか、地に足がついている感じ。
近藤千雄による日本語訳もすばらしいクオリティです。以下、印象的だったところをまとめておきます。
なお他の世界的霊訓についての記事はこちら。
シルバーバーチの霊訓 第1巻
・われわれの日常的な自我はわれわれの存在の一部でしかない。氷山の一角がこの私。
東洋では伝統的に小我と大我で区別されてきたもの。
・われわれの本体は霊。身体は住居のようなもの。
哲学において心身二元論は時代遅れのものですが、シルバーバーチの言明が正しいとすると、古代~近世の哲学者のほうがよっぽど真理をつかんでいたといえそうです。
・人類に巨大な危機が迫っている。だからこうして対話を始めた。
二度の世界大戦のことでしょうか?それとも現在でもまだ危機は進行中?バシャールによると人類はスピリチュアリティの進化において重要な分水嶺をクリアしたそうです。それが本当ならやはり最大の危機は大戦の時代にあったのか。
・魂は生まれる前に人生の目的を決めている。その青写真を実現するために最適な場所を自分で選んで生まれてくる。
これはほんとどこでも言われますよね。すべて自分の責任といわれると小我であるわれわれとしては理不尽な気になりますが、しかし同時にこういう観点は自分自身に権能(パワー)を取り戻す支えにもなりえます。
議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根付きません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。
(『シルバーバーチ』近藤千雄訳、以下引用はすべて同訳者)
人のために己を棄てる仕事にもいろいろあります。あるものは人目につく派手なものであり、あるものは人目につかない静かな聖域で行われます。いずれにせよ大切なのは人のために役立つことです。霊的真理の悟りを一人でも多くの、受け入れる用意の出来た人に施すことです。
大切なのは、人間が永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部なのだという事実を知ることです。その地上生活を無知の暗闇の中ではなく、叡知の光の中で、肩をすぼめず背筋をまっすぐに伸ばして、恐れを抱かず堂々たる落ち着きをもって生きるべきです。
人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界へ戻った時にあなたを待ち受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、さまざまな体験を積むということです。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうというわけです。
霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは絶対にありません。なんらかの荷を背負い、困難と取り組むということが旅する魂の本来の姿なのです。
・霊性にとってもっともマイナスな感情は「怖れ」。
・サイキック(超能力)とスピリチュアルの違いは霊的世界やその摂理を認識できているかどうか。サイキックが開発された人なら大勢いるけれどもそれがスピリチュアルな次元にまで高められた人はそう多くない。
・地上に生まれてくるのは霊性を向上させるため。そして他人の霊性向上のきっかけとなることほど大きな功徳はない。
・利己的な祈りは効かない。霊格を高めるためにプラスとなる祈りは効く。ただし、祈りを無視してその状況に本人を放っておくことが最上の選択肢であるケースが多々ある。
・唯物主義者や無神論者にも霊格の高い存在はいる。
・霊界は霊格ごとに層が分かれている。異なる霊格の者同士がまじわることはない。
・幽界は地上とよく似ている。ここでは住民が罪を犯すこともある。
これはスウェーデンボルグのいう精霊界のことでしょうか?
・どんな悲劇でも全体から眺めれば意味がある。地上の知識だけで判断することはできない。
『カラマーゾフの兄弟』のイワンが聞いたら激怒しそう。シルバーバーチの発言が正しいとすると、ライプニッツの哲学は真理を捉えていたことになります。
・死後の霊は地上に帰りたがっている者と帰りたがらない者に二分される。嫌がっている魂を無理やり地上に連れてくることはできない。
・すべての人間に一人の守護霊がついている。そして守護霊のサポート役として何人かの霊がついている。守護霊はその人間の人生にどのような道筋があるのかあらかじめ見えている。
霊界の通信者の伝えたいことが百パーセント伝わることは滅多にありません。あることはあるのですが、よほどの例外に属します。
霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めていることがあります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかないことがよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎないことがあるのはそのためです。
キリスト教会との関係となると、これは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこのうえなく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋もれてしまっていることに気づいてくれないのです。
なおキリスト教などの既成宗教への批判はモーゼスの『霊訓』がきわめて強烈かつ説得力に富んでいます。
ただしシルバーバーチによるとイエスはこの地球上に生まれてきた人間のなかでもっとも霊格の高い存在とのこと。キリスト教がいう三位一体の神でもなんでもなくただの人間でしたが、彼ほどの宗教的天才は少なくとも現時点では後にも先にも存在しないそうです。
暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止することができれば、それがたった一人の人間、一匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があったことになります。
シルバーバーチは動物への愛を重んじる発言が目立ちます。また動物実験を厳しく批判しています。なお動物にも死後の生活はあるようです。
シルバーバーチ第2巻以降の読書メモ
・霊と生命について
・人間の進化(ダーウィン的な意味ではなく)と心霊能力の開花の関係について。
・霊界こそがリアルであり、地上は影にすぎないということ。
エベン・アレグザンダー医師が臨死体験を振り返り、「向こうの世界のほうがよりリアリティがあった」と語っていたことを思い起こさせます。
プラトンのイデア論などもこのような事実に根拠をもつのでしょう。地上世界は天界のイデアの影にすぎない、というやつ。
中世のスコラ哲学者は「存在の度合い」みたいなことを論じ合っていましたが、それもこのような文脈で理解すべきなのかも。頭のなかだけで存在概念をあれこれいじり回していたわけではなく、なんらかの経路で霊界についての知識を入手し、それを元に議論を組み立てていたのだと思われます。
・あの世と民族性について
・背後霊の選出について
・乗り物について
・霊界の法律や立法機関について
人類は地上でもこの状態を再現しようと試み、何度も痛い目にあってきたと言えそうです。
・音楽について
・本について
・睡眠欲と食欲について
・死を嘆くべきではないということ
「死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、
より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来の限りない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。
苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探究心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。
その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分で耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。
それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳(かす)みを拭い落した目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。
愛は常に愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近な存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこびを十分に味わうことができるはずです。
皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ捨てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。
土の束縛から解放されて、死の彼方で待ち受ける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです」
バシャールいわく死とは扉を開けてとなりの部屋に行くようなもの。
想像以上にあの世はここと似ているのかもしれないですね。確かにそうじゃなきゃ、自分が死んだことに気づかない霊がたくさんいるのはおかしいかも。
僕は昔から、人が死ぬことをマイナスの事態とは感じられませんでした。逆に子供の誕生のほうが暗い気持ちになります。これはおかしなことじゃないんだとお墨付きを得て、かなり安心する。
・宗教の本質について
「人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって、付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているものです。地上生活の全目的はその内在する霊に修業の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて身仕度させることです。
それから本当の意味での生活が始まるのです。従って宗教とは霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処世訓であり道徳律であると言えます。ところが不幸なことに、古い時代に霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は聖堂や教会等、宗教的行事の取り行われる建造物の管理でした。」
・宗教の堕落について
「原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が神示を受ける霊媒にばかり関心が向けられることを不愉快に思いはじめました。
そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日そのどれ一つとして霊の資質や生活や発達と実質的に関わりのあるものはありません。
かくして真の宗教の概念が今日では曖昧となってしまいました。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ〝聖典〟と呼ばれるものを読み上げることと考え、讃美歌を歌い、特別な衣装を着ることだと考えるようになりました。
何やら難しい言説を有難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつもなおそれにしがみつきます。私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心を持つのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わなければならないところの霊的自然法則に向けられています。人間のこしらえたものを崇めるわけにはいきません。
宇宙の大霊によって作られたもののみを実在と信じます。そこに宗教の捉え方の違いの核心があります。
人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差しのべること、弱き者へ力を貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること───これが私たちの説く宗教です。」
・イエス・キリストについて
「イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。
それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。」
・イエスを神と見なすことは誤り
「ある人は神と同じ位に置き、神とはすなわちイエス・キリストであると主張します。
それは宇宙の創造主、大自然を生んだ人間の想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで三十年ばかりの短い生涯を送った一人の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変わらず古い民話や太古からの神話を御生大事にしている人の考えです。
ではイエスをどう評価すべきか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則───愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。
もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難き存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになります。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。」
・若きイエスはエジプトやインドで学んだ
「───十四歳から三十歳までの間イエスは何をしていたのでしょうか。
「その間の年月は勉学に費されました。イエスの教育に当たった人たちによって、真の賢者のみが理解する霊の法則を学ばさせるために各地の学問の施設へ連れて行かれました。心霊的能力の養成を受けると同時に、その背後の意味の理解を得ました。要するにその時期は知識の収得と才能の開発に費されたわけです」
───その教育施設はどこにありましたか。
「幾つかはインドに、幾つかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサンドリアにありました」
イエスについてはモーゼスの『霊訓』および『続霊訓』にくわしく書かれています。
・神童には3つのタイプがいる
───いわゆる〝神童〟について説明していただけませんか。
「三つの種類があります。一つは過去世の体験をそのまま携えて再生した人。二つ目はたとえ無意識であっても霊媒的素質を具えた人で、霊界の学問や叡知、知識、真理等を直接的にキャッチする人、三つ目は進化の前衛としての、いわゆる天才です」
このへんのロジカルな説明、明快ですばらしい。
・啓示の賞味期限について
───モーゼの十戒をどう思われますか。
「もう時代遅れです。今の時代には別の戒めが必要です。
人間の永い歴史のいつの時代に述べられたものであっても、それをもって神の啓示の最後と思ってはいけません。啓示というものは連続的かつ進歩的なものであり、その時代の人間の理解力の程度に応じたものが授けられております。理解力が及ばないほど高級すぎてもいけませんが、理解力の及ぶ範囲が一歩先んじたものでなければなりません。霊界から授けられる叡知はいつも一歩時代を先んじております。そして人間がその段階まで到達すれば、次の段階の叡知を受け入れる準備が出来たことになります。
人類がまだ幼児の段階にあった時代に特殊な民族の為に授けられたものを、何故に当時とは何もかも事情の異なる今の時代に当てはめなければならないのでしょう。もっとも私には〝十戒〟ならぬ〝一戒〟しか持ち合わせません。〝お互いがお互いのために尽くし合うべし〟───これだけです」
モーゼスの『霊訓』でも高級霊インペレーターが同じことを語っていました。まあわれわれから見ても常識的な考え方ですよね。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「啓典の民」と呼ばれ、公式が正典をガッチリ固定してしまうところが特徴。思うにあれがよくないですよね。
仏教とかにも聖典はいろいろありますが、公式の権力が一つの正典をガッチリ固定してしまうことは、良くも悪くもできなかった。でもそのおかげで、時代遅れな教説がどんどん淘汰されていくことができるんですよね。
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