木田元『反哲学史』プラトンは何故イデア論を自己批判したのか?
日本を代表するハイデガー研究者の木田元。
彼が西洋哲学史をコンパクトにまとめた名著が『反哲学史』(講談社学術文庫)です。
哲学は本当に普遍的なものなのか?むしろ西洋というローカルな時代と場所で成立したローカルな知ではないのか?
このスタンスが特徴。タイトルの「反哲学史」の「反」はこれを表すものです。
といっても内容は普通に西洋哲学史なので、哲学史の入門書として機能します。
今回久しぶりに読み返してみたのですが、正直記憶のなかにあるイメージよりもだいぶ高度な本でした。
僕は哲学史の本ではこれを最初にすすめることが多いのですが、はたしてそれは適切な判断だったのかと若干疑問に思えてきました。熊野純彦の『西洋哲学史』(岩波新書)あたりのほうが一冊目にはいいかもしれないですね…
哲学史のおすすめ本については以下の記事を参照のこと。
どうしてプラトンはイデア論を自己批判したのか?
今回もっとも印象に残ったのはプラトンについての章。木田元はプラトン哲学についてかなり変わった見方をしています。
まずプラトンの哲学が古代ギリシアにとって異国風の思想だったという点がポイント。
古代ギリシアの自然観というのは日本のそれに近かったんです。すべてを包み込み、ゆっくりと自律的に動いてるみたいな。「生成」がキーワードです。
それに対してプラトンは自然を制作されたものと見なします。自然の彼方に製作者がいて、その製作者が材料を使って制作したのが自然界です。真の実在(イデア)としての自然がどこかにあって、われわれを取り巻く現実の自然はそのコピーにすぎません。「生成」に対する「制作」の存在論ですね。
これはいわばユダヤ的な発想なのですね。木田元はプラトンが旅行中にユダヤからの影響を受けた可能性を示唆しています。
ちなみにアリストテレスの思想はプラトン先生の行き過ぎからの揺り戻しで、プラトンとソクラテス以前の哲学者を調停しようとしたところが特徴です。
ここからが重要なのですが、なぜプラトンはこんな変な思想をギリシアに持ち込んだのか?
木田はそれを政治思想の基礎づけのためであると推測しています。プラトンはアテネの政治システムが成り行き任せで進行してほしくなかったんですね。
むしろしっかりしたリーダーシップのもと、合理的なシステムがきちんと制作されるべきだとプラトンは考えた。
この政治的理想を正当化するために用意されたのがイデア論だったというわけです。
イデア論をこの政治的文脈から切り離して考えると色々とおかしなことになります。イデア論という道具が目的から切り離され、暴走する感じ。イデア論というマシーンから、ありえない結論が次々と出てくるような。
後期のプラトンは『パルメニデス』などの著作でイデア論の自己批判を試みます。イデア論を論理的に突き詰め、それが最終地点で破綻してしまうことを証明するのですね。
なんでそんなことをしたのか?イデア論推しをやめたのでしょうか?
木田はプラトンによるこの自己批判を、後続の哲学者たちへ向けた批判として理解します。
プラトンの影響を受けた思想家たちは、イデア論を文脈から切り離してそれ自体として展開させようとしたんでしょうね。
プラトンはそれがいかに無謀であるかを見抜いていた。したがって後続の思想家たちの暴走をよしとせず、文脈から切り離されたイデア論がいかに論理的破綻に追い込まれるかを論証したというわけです。
皮肉なことに、西洋哲学はイデア論の暴走がリードしていきます。文脈抜きのイデア論を真に受けた後続の思想家たちはそれを押し進め、制作的存在論やプラトニズムが西洋のコアに根付くことになりました。