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ニーチェの生涯と哲学をわかりやすく解説【永遠回帰・超人・ニヒリズム】

「神は死んだ」「力への意志」「永劫回帰」

ニーチェの言葉なら、いくつか思い浮かぶという方も多いはずです。

書店に行けば、彼の名を冠した入門書やアフォリズム集が、平積みされ続けています。現代日本でもっとも人気のある哲学者は、おそらくニーチェではないでしょうか。

ところが、いざ「ニーチェは結局なにを主張したのか」と聞かれると、それに答えるのは容易ではありません。

ニーチェは、体系だった論文ではなく、短い断章を武器に、時にキリスト教を、時に科学を、時に道徳そのものを、あらゆる角度から斬りつけていくスタイルを取っているからです。

一つの体系、一つの結論へと収斂しない。それこそがニーチェの思想を、恐ろしく捉えどころのないものにしている理由なのです。

しかし今回は、あえてこの困難に挑んでみようと思います。手がかりとするのは、ニーチェ研究者・清水真木の仕事です。

実はニーチェ自身、自らの思想を読み解くための「鍵」を、はっきりと文章に残していました。それが「7つの序文」と呼ばれるテクスト群です。

これは、当初まったく売れなかった主要著作7作について、ニーチェが後年みずから書き足した序文のこと。この序文のなかで彼は、「自分の思想はこう読まれるべきだ」という、いわば取扱説明書とも呼べる解説を、自らの手で綴っているのです。

そこに繰り返し登場するキーワードが、「健康」と「病気」です。

一見、哲学とは無縁に思えるこの一対の言葉を軸に据えたとき、あの難解で捉えどころのないニーチェ哲学が、すっきりと一本の線でつながって見えてきます。

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ニーチェの生涯

ニーチェが生まれたのは1844年のドイツ。

ドイツといえば哲学の中心地といった印象があります。ニーチェ以前ならライプニッツ、カント、ヘーゲル。ニーチェ以降ならフッサール、ハイデガー。

しかしニーチェが生きた時代のドイツは、ちょうど哲学の暗黒時代。科学をいかに基礎づけるかといった仕事に汲々とし、独創的な思想が現れない時期でした。

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ちょうど第二次世界大戦以降の現代と似ています。この時代において、ニーチェはアウトサイダーでした。

ニーチェはキリスト教牧師の息子として生まれ、当初は神学を学んでいました。

子どもの頃から学業は優秀で、高校は名門プフォルタ学院に入学。1日のうち大半がギリシア語とラテン語の学習に充てられるというエリート校で、これがのちの古典文献学の仕事に活きてきます。

ちなみにニーチェは数学が苦手で、試験ではひどい点数をとっています。しかしギリシア語とラテン語の成績が飛び抜けていたため、「これほどの天才的生徒を数学の点数を理由に卒業させないのは逆に恥だ」ということになり、なんとかプフォルタ学院を卒業できました。

大学はボン大学で神学を専攻。しかし途中で古典文献学に専門を変え、ライプツィヒ大学に籍を移します。

文献学の大御所リッチュルに才能を見出されたニーチェは、またたく間に出世。24歳にしてバーゼル大学の助教授に就任します。しかも教職に必要な資格をもっていなかったにもかかわらず、特例で助教授になったのでした。例外的な天才の扱いを受けていたことがわかります。

音楽家ワーグナーとの出会いも24歳のときでした。ふたりは、ともに愛読していたショーペンハウアーの話題で意気投合。ニーチェはワーグナーのカリスマ的人格に大きな影響を受けます。とはいえ、のちにビジネスマン的な振る舞いが多くなっていくワーグナーに幻滅し離反するのですが。

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ショーペンハウアーとワーグナーの圧倒的な影響力から、いかに自立できるか。これは生涯にわたるニーチェの課題となっていきます。

ニーチェの人生に暗い影が射したのは26歳のときでした。

この年、普仏戦争が勃発。柄にもなく「国粋主義の発作」を起こしたニーチェは、看護兵として従軍することを決めます。

しかし看護の職務中に、ニーチェは赤痢とジフテリアに感染してしまい、そのまま入院することに。この瞬間から死に至るまで、ニーチェの身体が健康を回復することはありませんでした。

ニーチェは教職を続けることが困難となり、大学を去ります。バーゼル大学からは年に約200万の年金が支給されることになり、これ以降のニーチェは健康に細心の注意を払いながらヨーロッパを転々とし、ほそぼそとした生活を送ります。

38歳のときに大事件が起こります。ロシア人女性のルー・ザロメと出会ったのです。彼女は当時21歳でした。

異常な知性を持つこの女性は、ニーチェの思想を見事に理解してみせます。自分の思想の理解者にはじめて出会えたことに感激したニーチェ。彼はその勢いでルーに結婚を申し込みますが、即座に断られます。

しかもあろうことか、友人のパウル・レーがルーと恋仲になり、ニーチェを置き去りにして駆け落ちしてしまうのです。残されたニーチェは失意の底に沈みます。

その後なんとか『ツァラトゥストラ』を完成させるも、世間からはなんの反応もありません。それまでの著作も鳴かず飛ばずでした。ここにきてニーチェは初めて、自分の才能を疑います。

自分の思想を打ち出すだけのアプローチでは、埒が明かないと思い知ったニーチェ。ここから彼は、自分の思想をわかりやすく解説する、啓蒙的な著作を出していく戦略をとります。そのスタートが『善悪の彼岸』でした。7つの著作に7つの序文をつけ足す作業をしたのもこのときです。

この作戦が功を奏し、少しずつニーチェの評判は上がっていきます。

しかしニーチェには、みずからの成功を目の当たりにする時間は残されていませんでした。まもなくして精神の破局が訪れたからです。

『ツァラトゥストラ』の完成から4年後の1889年、ニーチェの知人たちのもとに謎の手紙が大量に送りつけられます。異変を感じたオーバーベックがニーチェのもとを訪ねると、すでに彼は精神錯乱者になっていました。

オーバーベックの手配で、ニーチェはそのまま精神病院に入院。それから1900年の死に至るまで11年間、彼の精神が正気を取り戻すことはありませんでした。

なんの病気だったのかはいまだに解明できていません。現代医学の知見をもってしても、かなりミステリアスな病状だったようです。

ある証言によると、ニーチェは散歩中におかしくなったようです。馬が御者に鞭打たれているのを目撃し、涙を流しながら馬の首に抱きついてそのまま気を失ったといいます。

このエピソードは、ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるラスコーリニコフとそっくりです。『罪と罰』は1866年発売。だから、『罪と罰』を意識して作り上げられた偽の証言なんじゃないかと思います。

もしこの証言が本当だとしたら、ニーチェの行動にラスコーリニコフの影響が出たのか、それとも偶然の一致なのか、興味深いところです。

 

『悲劇の誕生』——ニーチェのコア思想はすでにここにある

ニーチェのデビュー作は、『悲劇の誕生』といいます。

一見すると、古代ギリシアの演劇を論じた、地味な文献学的著作に見えるかもしれません。しかし、この一冊のなかにはすでに、生涯を通じて変わることのない、ニーチェ哲学の核が凝縮されています。

表向きのテーマは、ギリシア悲劇の起源と本質です。しかし、その裏でニーチェが本当に狙っていたのは、「ソクラテス主義」と彼が呼ぶものへの批判でした。

この一冊を読み解くことは、そのままニーチェ哲学の出発点を読み解くことになります。

ギリシア悲劇とは、精神を鍛えるための「負荷装置」である

まず、ニーチェにとってギリシア悲劇とは何だったのでしょうか。

彼の答えは独特です。ギリシア悲劇とは、あえて悲観的な世界観を観客に突きつけることで、その生存本能に強い負荷をかけ、生きる意欲そのものを鍛え上げるための装置だった、というのです。

これは、アスリートが自らの身体に高負荷のトレーニングを課すのとよく似ています。筋肉は、あえて限界まで負荷をかけることによってしか強くなりません。安全で快適な環境に身を置いているだけでは、身体はいつまでも脆弱なままです。

ギリシア人たちは、これとまったく同じ論理を、精神の領域で実践していました。

人生は苦しみに満ち、世界には意味などなく、英雄でさえ理不尽な運命に翻弄され破滅していく。舞台の上でこうした過酷な世界観をあえて突きつけられることで、観客の精神は激しく揺さぶられます。しかしその揺さぶりを乗り越えたとき、彼らはより強靭な、より生への意欲に満ちた精神を手に入れることができる。

ニーチェは、これこそがギリシア悲劇という文化装置の本質的な機能だったと考えたのです。

圏外に立つ者たち——ソクラテスとエウリピデス

しかし、このような「負荷としての悲劇」という文化圏の外に立つ者たちが、当時のギリシアにも存在していました。その代表格が、哲学者ソクラテスと、彼の影響を色濃く受けた悲劇作家エウリピデスです。

ギリシア悲劇が提供する悲観的な世界観は、あくまで一種のフィクションであり、いわば精神を鍛えるための「よくできた妄想」にすぎません。

徹底して合理性を重んじるソクラテスは、こうした単なるフィクションでは満足できませんでした。彼が求めたのは、感情を揺さぶる物語ではなく、理性によって裏づけられた、確かな真理だったのです。

ソクラテスは、理性の力によって妄想やフィクションを一つひとつ排除し、その先にある合理的な真理を探求しようとしました。時と場合、あるいは人によってころころと変わってしまうような相対的な尺度ではなく、ピュシスつまり自然そのものに根差した、普遍的で客観的な徳や正義を追い求めたのです。

この探求の姿勢こそが、やがて「哲学」という営みへと結実し、さらには西洋のあらゆる学問の源流となっていきました。

世界や人生の核心には、必ず合理的な意味があり、普遍的な正義がある。ニーチェは、こうした信念そのものを「ソクラテス主義」と呼び、これを彼の哲学全体を通じて批判し続けることになります。

学問は、自らの足元を掘り崩してしまった

ここでニーチェの議論は、さらに一歩先へと進みます。

ソクラテス主義から育っていった「学問」という営みは、あらゆる妄想や思い込みを一つひとつ徹底的に排除しようとする、極めて誠実な試みでした。

ところが皮肉なことに、この誠実さを突き詰めていった果てに、学問は思いもよらぬ結論にたどり着いてしまいます。それは、学問自身の足場そのものに、確たる根拠などなかったという事実です。

世界にも、人生にも、実は普遍的で合理的な意味などどこにも存在しなかった。人間はただ、めいめいが勝手にフィクションを作り出し、そのフィクションの正しさを互いに主張し合い、争わせてきたにすぎなかったのです。

真理を求め抜いた理性は、皮肉にも「真理などなかった」という真理にたどり着いてしまった、というわけです。

フィクションを肯定し、芸術として生きる

では、この救いのない現実を前にして、私たちはどうすればよいのでしょうか。

ニーチェの答えは明快です。この現実から目を背けるのではなく、むしろ正面から肯定しなければならない、というのです。

学問はもはや、「客観的な真理を発見する」というソクラテス主義的な装いを、静かに脱ぎ捨てるべきときに来ています。そのかわりに、学問そのものが一種の芸術として生まれ変わり、新たな価値を自らの手で創造していかなくてはならない。

これが、『悲劇の誕生』においてニーチェが打ち出した根本的な立場でした。

そして、ここで示された考え方は、この後ニーチェが著作を重ねていくなかでも大きく揺らぐことなく、彼の哲学全体を貫く一本の軸として持続していくことになります。

 

健康と病気とニヒリズム——フィクションに序列をつける論理

崖上に立つニーチェの後ろ姿

ここまで見てきたように、ニーチェの思想の根底には、「普遍的な真理などというものは、そもそも存在しない」という揺るぎない確信があります。

世界にも人生にも客観的な意味などなく、人はただそれぞれに無根拠なフィクションを作り上げ、そこに寄りかかって生きているにすぎない、というわけです。

では、ニーチェの立場は、結局のところ「何でもあり」の相対主義に行き着くのでしょうか。

実は、そうではありません。そして、まさにこの点にこそ、ニーチェ思想の独自性があり、同時に論理的に見て突っ込みどころのある部分も潜んでいます。

ニーチェは、あらゆるフィクションを等価なものとして並べたりはしません。彼は「健康と病気」という一つの観点を持ち込むことで、フィクションとフィクションのあいだに、はっきりとした位階秩序を作り出すのです。

健康で力強いフィクションは上位に、病的で弱々しいフィクションは下位に位置づけられる、というわけです。

健康とは何か、病気とは何か

では、この「健康」と「病気」は、いったい何によって区別されるのでしょうか。

ニーチェにとって健康とは、より大きな負荷に耐えられる状態のことを指します。

自らの身体にあえて負荷をかけ、それによって強靭さを高めていく。むしろ進んでストレスや困難を歓迎し、それを糧にしていく姿勢。これが健康な状態です。

その正反対にあるのが病気です。

負荷に耐えられず、ひたすらそれを避けようとする。できるだけ刺激の少ない、安楽で心地よい環境にじっと身を横たえていようとする。ニーチェにとって、これこそが病んだ身体の典型的な兆候にほかなりません。

そして興味深いのは、ニーチェがこの「健康/病気」というロジックを、身体だけでなく精神にもそのまま適用してしまう点です。身体に健康と病気があるように、精神にもまた健康と病気がある。これが、ニーチェの思想全体を貫く根本的な洞察となっています。

ニーチェによれば、自らの精神にあえて負荷をかけるようなフィクションを創造できるのが、精神的に強者である者たちです。先ほど見た古代ギリシアの悲劇は、まさにその典型例でした。

これに対して、自分を慰め、安心させてくれるだけのフィクションしか創造できないのが、弱者とされる者たちです。ニーチェはその代表例として、キリスト教、科学万能主義、ロマン主義などを挙げていきます。

3種類のニヒリズム

この「健康と病気」という観点から眺め直すと、ニーチェの有名なニヒリズム論も、見通しよく整理することができます。

ニーチェの言うニヒリズムには、大きく分けて三つの段階があります。

1. それまで絶対的だと信じられてきた価値体系が、崩壊していく段階

2. その価値の揺らぎに耐えきれず、気力を失ってフリーズしてしまう段階(消極的ニヒリズム)

3. その揺らぎをむしろ前向きに受け止め、新たな価値の創造へと向かっていく段階(積極的ニヒリズム)

弱者たちは、自分を安心させてくれる世界観を作り上げ、長らくそこに安住してきました。ところが、長い時間をかけて、その世界観は次第に足元から崩れ始めます。

しかも皮肉なことに、その崩壊のきっかけを作ったのは、弱者の世界観の代表格であったはずのソクラテス主義でした。その末裔である近代の学問やキリスト教そのものが、真理を追求すればするほど、自らの立っている足場を掘り崩していくことになったのです。

自分の手で自分を崩壊させていく、この皮肉な構造、これが、ニーチェの言う第一のニヒリズムです。

弱者たちは、絶対的だと信じてきた価値体系がこうして崩れ去っていくのを前に、なすすべもなく気力を失い、深い失意のうちにフリーズしてしまいます。

これが第二の段階、いわゆる消極的ニヒリズムです。

これに対して強者たちは、まったく逆の反応を示します。第一のニヒリズムが進行すればするほど、まるで水を得た魚のように生き生きとしてくるのです。

古い価値体系が崩れ去ることは、彼らにとって、新たな価値体系を自らの手で創造する絶好の機会にほかなりません。それはさながら、目の前にそびえる高い山を仰ぎ見て、心を躍らせる登山家のような心境だと言えるでしょう。

これが第三の段階、積極的ニヒリズムです。

ニーチェ自身の立場は、まさにこの積極的ニヒリズムにあります。だからこそ彼は、みずからを臆することなく「ニヒリスト」と名乗るのです。

そして、新たな価値体系が創造される時代の到来を待ち望むがゆえに、ニーチェは第一のニヒリズム、すなわち既存の価値体系が崩壊していくその過程そのものを、恐れるどころか、むしろ積極的に歓迎してみせるのです。

 

永遠回帰と超人——最大の負荷とそれに耐える者

ニーチェ哲学のなかで、もっとも有名な概念を二つ挙げるとすれば、おそらく「永遠回帰」と「超人」ではないでしょうか。どこか謎めいた響きを持つこれらの概念は、神秘的な思想として紹介されがちです。

しかし、ここまで見てきた「健康と病気」というロジックを通して眺め直すと、この二つの概念はすっきりと理解できるようになります。

これまで確認してきたように、ニーチェにとって精神の健康とは、自らに負荷をかけ、その負荷に耐えられることを意味していました。そして、その負荷を大きくすればするほど、それに耐えうる精神はより強く、より健康であるということになります。

では、この論理を突き詰めていったとき、つまり負荷をどこまでも大きくしていったとき、最終的にその負荷はどのような形を取ることになるのでしょうか?

ニーチェが示す答えが、永遠回帰です。これは、考えうる限り最大の負荷、精神に与えうる最大の負荷を持つフィクションとして位置づけられています。

その内容を一言でいえば、「この人生が、寸分違わずそっくりそのまま、何度も何度も繰り返される」という考え方です。喜びも苦しみも、成功も失敗も、そのすべてが永遠に反復され続ける。このアイデアこそが、ニーチェにとって想像しうる最大の負荷、最大の悲劇を意味していました。

そして、この永遠回帰という途方もない負荷に耐えうるほどの、強靭きわまりない精神の持ち主のことを、ニーチェは「超人」と呼びます

この超人もまた、実在する人間のことではなく、一種のフィクション的な理想像として提示されているものです。ニーチェ自身、「現実の人間には、まずもって不可能だろう」と考えていた節があります。

このように整理してみると、永遠回帰と超人という二つの概念のあいだには、明確な内的連関があることが見えてきます。

永遠回帰という「最大の負荷」があり、それに耐えうる者として超人という「理想の健康」が想定される。「健康と病気」という一本の軸から全体を見渡すことで、この関係性はクリアに浮かび上がってくるのです。

余談:なぜ「永遠回帰」が最大の負荷なのか

ここで少し余談を挟みたいと思います。

精神に最大の負荷を与えるものとして、ほかでもなく「永遠回帰」が持ち出されているという事実は、実はニーチェという人物の性格そのものを、いくらか物語っているように思われます。

というのも、人によっては、この人生が何度も繰り返されるということに、それほど強いストレスを感じないかもしれないからです。むしろ、人生がもう一度、いや何度でも繰り返されるのなら、それを喜んで歓迎するという人さえいるかもしれません。

そうしたタイプの人にとって、本当に恐ろしいのは「永遠回帰」よりもむしろ、この人生がたった一度きりで、跡形もなく終わってしまうこと、いわば「無としての死」のほうではないでしょうか。

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実際、たとえばハイデガーは、その主著『存在と時間』のなかで、まさにこの「死」こそを、人間が本来的な生き方へと目覚めるための決定的なトリガーとして位置づけています。

この対比から見えてくるのは、ニーチェが「無としての死」そのものには、さほど恐怖を覚えないタイプの思想家だった、という点です。

彼にとってより耐えがたいのは、むしろ、せっかく苦しみ抜いて完結させたはずのこの人生が、またもや繰り返しやってきてしまうことのほうでした。

だからこそニーチェにとっては、他の何ものでもなく「永遠回帰」というアイデアが、精神に課しうる最大の負荷として立ち現れるのです。

 

本当に「真理」は存在しないのか

ここまで、ニーチェ哲学の根本思想を見てきました。

最後に、あえて一つ批判的な問いを投げかけておきたいと思います。それは、ニーチェの思想全体を支えている、ある一つの前提についてです。

ニーチェの哲学は、突き詰めれば「形而上学的な真理などというものは存在しない」という命題の上に築かれています。

プラトンのイデア、キリスト教の神、カントの物自体。彼はこれらすべてを、生存を否定するための虚構、あるいは弱者のルサンチマンが生み出した幻影として退けました。

真理とは発見されるものではなく、力への意志によって「創造」されるものにすぎない、というわけです。

では、この前提はどこから来たのでしょうか。

一つの見方として、それは19世紀後半のヨーロッパを覆っていた、ある特定の知的気分の産物だったのではないか、という疑いがあります。ダーウィンの進化論、実証主義、唯物論的な自然科学…。

形而上学的な世界像が次々と解体されていく時代のなかで、「もはや絶対的な真理など信じられない」という感覚は、一つの時代精神として常識化していきました。

ニーチェはこの空気を吸い込み、それを哲学の言葉へと結晶化させた思想家だったと言えます。

興味深いのは、ニーチェが表向きは科学に対して懐疑的な態度を取っていた点です。彼は科学もまた一つの「解釈」にすぎず、真理への意志という一種の禁欲主義の変種にすぎないと喝破しました。

ところがその一方で、彼の思想の土台そのもの、たとえば形而上学的実在の否定、目的論的世界観の拒絶、生成と偶然を絶対視する自然観などは、当時の唯物論的自然科学が前提としていた世界像と、奇妙に重なり合っています。

いわばニーチェは、正面から科学と対峙しているように見えながら、その実、時代の自然科学観を「密輸入」して、自らの哲学の地盤としてしまっていたのではないでしょうか。

ここで確認しておきたいのは、「究極の真理は存在する」という可能性を、私たちはまだ論理的に排除できていない、という単純な事実です。

宇宙には、あらゆる生命が接近していくべき一つの究極目的が存在しているのかもしれません。あるいは、この世界というゲームそのものを成立させている、何らかの絶対的なコード、物理法則を超えた意味の構造が存在しているのかもしれません。

だとすれば、キリスト教やプラトン哲学が語ってきた「真理」もまた、完全な形ではないにせよ、その究極の秩序の一端を、比喩や物語というかたちで捉えていた可能性を、頭から否定することはできないでしょう。

ニーチェが「弱者の慰めの物語」として切り捨てたものの中に、実は歪んだかたちであれ、何らかの実在への手がかりが含まれていたのかもしれないのです。

真理の不在を前提として哲学全体を組み立てるのではなく、真理が存在するのか存在しないのか、それ自体を開かれた問いとして保持し続けること。それこそが、本来の意味でもっとも懐疑的で、もっとも哲学的な態度なのではないでしょうか。

ニーチェは「神は死んだ」と宣言しました。しかしその宣言もまた、一つの時代が生み出した、一つの信仰告白だったのかもしれません。

 

ニーチェは哲学者か、それともソフィストか

ソクラテス

もう一つ、根本的な疑問を提示しておきたいと思います。それは「絶対的な真理の存在を否定するニーチェは、そもそも哲学者と呼べるのか」という問いです。

哲学という営みの原点に立ち返ってみると、この疑問には根の深い意味があることが分かってきます。

古代ギリシアに、プロタゴラスという人物がいました。「ソフィストの王」とも呼ばれる、当代随一の弁論家です。彼はこう言い放ちました。「万物の尺度は人間である」と。

この言葉が意味するのは、こういうことです。

客観的で普遍的な真理など、そもそもどこにも存在しない。真理と呼ばれているものは、しょせんそれぞれの人間が自らの利害関心にもとづいて作り上げた、一つのパースペクティブにすぎない。ある人にとっての「正しさ」は、別の人にとっての「正しさ」とは限らない。ならば、弁論の力によって相手を説得できさえすれば、それこそが「勝利」なのだ。

プロタゴラスをはじめとするソフィストたちは、おおよそこうした立場に立っていました。

これに真っ向から異を唱えたのが、ソクラテスであり、その弟子プラトンでした。

二人は、人間の主観や利害を超えたところに、揺るぎない真理が存在すると考えました。彼らはそれを、ピュシスすなわち自然本性にもとづく真理と呼びました。

人間がどう思おうと、どんな利害関係を抱えていようと、正義には正義そのものの本質があり、美には美そのものの本質がある。それを理性の力によって探求しようとしたのが、ソクラテスとプラトンの哲学だったのです。

つまり、西洋哲学の出発点そのものが、実は「ソフィスト的な相対主義」に対する「哲学的な普遍主義」の対決だったと言えます。

そして、この対決においてプラトンが勝利を収めたからこそ、哲学という営みは、単なる弁論術や処世術とは一線を画す、真理を志向する学として、二千年以上にわたり西洋の知の中心に据えられ続けてきたのです。

さて、こうした歴史を踏まえたうえで、あらためてニーチェの思想を眺めてみるとどうでしょうか。

ニーチェは、真理とは発見されるものではなく、力への意志によって「創造」されるものだと考えました。絶対的な視点など存在せず、あらゆる認識は特定の視点、すなわちパースペクティブから逃れられない。これがニーチェの有名な「パースペクティブ主義」です。

これは、プロタゴラスの思想に似ていないでしょうか。「万物の尺度は人間である」を、「万物の尺度は力への意志である」と言い換えれば、ほとんどそのままニーチェの哲学になってしまいます。

だとすれば、ニーチェがなしたことは、実質的には哲学の歴史を二千数百年分巻き戻し、ソクラテスとプラトンによって一度は退けられたはずのソフィスト的な相対主義へと、思想を回帰させることだったのかもしれません。

もちろんニーチェは、単純にプロタゴラスへ後戻りしたわけではありません。系譜学という緻密な方法論や、力への意志という独自の存在論を武器に、はるかに洗練された理論体系を築き上げています。しかしその根底に流れる発想を見ると、両者は近い場所に立っているように見えます。

そして、この構図はニーチェ一人にとどまりません。フーコーやデリダをはじめとする、いわゆるポストモダンの思想家たちもまた、真理を権力関係や言語構造の産物とみなし、普遍的な真理の存在に懐疑の目を向け続けてきました。

彼らの思想的な源流をたどっていくと、その先にニーチェがおり、さらにその先には、古代ギリシアのソフィストたちが立っている。そう見ることもできるのです。

哲学という営みは、もともとソフィスト的な相対主義を乗り越えるところから始まったはずでした。ところが二千数百年の時を経て、その哲学の最先端は、ふたたびソフィストの立っていた場所へと戻ってきてしまった。

ニーチェやポストモダンの思想家たちは、いわば「もっとも洗練されたソフィスト」だったのではないか、という見方も、十分に成り立つように思われるのです。

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Posted by chaco