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プラトンの『国家』をざっくり解説【ディストピアかユートピアか】

プラトンは古代ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子にして、今あるかたちの西洋哲学を生み出した最重要人物です。

そして『国家』は、プラトン中期の代表作。現代でも全米トップ10の大学で、必読書の一位にこの本が選ばれています。

対話篇という形式で書かれており、主人公として登場するのは、プラトンの師であるソクラテス。物語は、ソクラテスが友人や若者たちと議論を交わしながら進んでいきます。

タイトルだけを見ると、「理想の国家をどうやって作るか」という政治哲学の本のように思えるかもしれません。

しかし、『国家』を実際に読むと分かるのですが、この本が本当に問いたいテーマは「正義とは何か」という一点にあります。国家をどう作るかという議論は、実は「正義とは何か」を明らかにするために用意された、いわば巨大な思考実験なのです。

つまり『国家』は、政治制度そのものを論じることが目的の本ではありません。人間にとって正義とは何であり、正義を生きることにどんな意味があるのかを考えるために、プラトンは「理想の国家」という舞台装置を用意した、と言えるでしょう。

以下、『国家』の内容をわかりやすく解説します。

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実は『国家』のテーマは「正義」である

『国家』の冒頭で提示されるのは、次のような問いです。

「正しい人間と不正な人間では、どちらが幸福なのか?」

常識的には、「正しい人間」と答えるのが正解のように思えます。しかし、プラトンは登場人物たちの口を借りて、この常識をあえて揺さぶってきます。たとえば、こんな疑問が投げかけられます。

不正をしても、それがバレなければ得なのではないか。

正義を守る人はむしろ損をし、不正を働く人のほうが得をすることもあるのではないか。

それでもなお、人は正義を選ぶ価値があるのか。

「正直者が馬鹿を見る」という感覚は、現代の私たちにも身に覚えがあるのではないでしょうか。ずるをした人が得をし、真面目な人が損をする場面は、今の社会にもいくらでもあります。

プラトンは、この問題を単なる道徳の建前で片付けず、真正面から検討しようとするのです。

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とくにトラシュマコスの主張の強烈さは有名。現代の読者の少なからぬ者が、ソクラテスよりもトラシュマコスの議論に説得力を感じると思います。

ただし、ここで大きな壁にぶつかります。「正義とは何か」を考えようとしても、個人の魂の中にある正義を直接観察することは、非常に難しいのです。人間の内面は複雑で、外からは見えませんし、当人自身にもはっきりと言葉にできないことが多いものです。

そこでプラトンが取った方法が、興味深い発想の転換です。個人という小さな存在の中に正義を探すのが難しいなら、もっと大きな、目に見えやすい存在の中に同じ構造を探せばよいのではないか。そう考えて彼が選んだのが、「国家」というモデルでした。

国家は、個人よりもずっと大きなスケールで、同じ種類の秩序や正義を持っているとプラトンは考えます。

この「大きな文字を読んでから小さな文字を読む」ようなやり方で、プラトンは国家の中に正義のあり方を探り、そこから個人の魂における正義へと議論を戻していこうとするのです。

 

理想国家をつくる プラトンの思考実験

プラトンが知りたいのは正義の本質ですから、正義が完全に実現された国家をモデルとして用意したいわけですよね。したがって、理想国家を作り上げるという思考実験を始めるのです。

まずプラトンが出発点にするのは、非常にシンプルな事実です。人間は一人ではすべてのことをこなせません。食べ物を作る人、住む家を建てる人、服を仕立てる人など、それぞれが得意な仕事を分担することで、はじめて社会は成り立ちます。

この分業という発想を国家全体にまで広げていくと、プラトンの理想国家は、大きく三つの階層から構成されることになります。

①生産者……農業や商業、ものづくりなど、国家の経済活動を支える人々

②軍人・守護者……国家を外敵から守り、内部の秩序を維持する人々

③統治者……国家全体を導き、政治を担う人々

それぞれの階層には、それにふさわしい役割が与えられます。そしてプラトンが重視するのは、能力や適性に応じてふさわしい仕事に就くべきだという考え方です。生産者は生産に励み、軍人は国防に専念し、統治者は政治に集中する。それぞれが自分の持ち場を守り、他人の仕事に余計な口出しをしない。

プラトンによれば、こうして「それぞれが自分の仕事をきちんと果たす」ことこそが、国家全体の秩序を生み出します。誰か一人が複数の役割を兼任しようとしたり、逆に自分の役割を放り出して他の仕事に手を出したりすると、国家の調和は崩れてしまいます。

ここで、話は最初の問いへとつながっていきます。「正義とは何か」という問いに対して、プラトンはこの国家の姿から、ひとつの答えを導き出そうとします。それは、

正義とは、それぞれが自分の役割を果たし、全体として調和している状態である

という考え方です。正義とは特別な行為やルールというよりも、社会全体のバランスが取れている状態そのものだ、というわけです。この定義は、後の章で個人の魂の話に応用されることになります。

さて、ここまでは比較的すんなり受け入れられる話かもしれません。しかし、プラトンがこの理想国家の中身をさらに具体的に詰めていくと、現代の私たちから見ると驚くような制度が次々と登場してきます。

 

ディストピア的? プラトンの理想国家

プラトンと理想国家

前章で見た「それぞれが自分の役割を果たす」という理想国家の骨格は、聞こえとしては悪くありません。

しかし、プラトンがこの理想国家の制度を具体的に詰めていくと、現代の私たちから見ると衝撃的な内容が次々と出てきます。ここでは、その代表的な例を見ていきましょう。

①守護者階級は私有財産を持たない

まず、統治者や軍人は、私有財産を一切持つことを許されません。土地も家も、金銀も持てず、共同の食事をとり、共同の住居で暮らします。給料の代わりに、生活に必要なものを他の階級から支給される、という仕組みです。

これは、私腹を肥やすために権力を使う人間が出てこないようにするための工夫だとプラトンは説明します。

しかし裏を返せば、国家の中枢を担う人々の生活全体を、国家が完全に管理下に置いているということでもあります。

②家族制度への大胆すぎる介入

もっとも現代人を驚かせるのが、家族制度への介入です。プラトンは、守護者階級について「妻子は共有すべきだ」とはっきり主張します。具体的には、次のような制度です。

配偶者はくじで決まる……守護者たちの結婚相手は、特定の祭りの機会に、くじ引きによって組み合わされることになっています。

ただし、そのくじは操作されている……ここが特に興味深い点です。プラトンは、このくじが実は統治者によって秘密裏に細工されていることを認めています。優秀な男女同士を意図的に組み合わせ、劣った者同士の組み合わせを増やすことで、国家全体の「質」を上げようとするのです。ただし、それを本人たちに気づかせてはいけません。くじの結果だと信じ込ませることで、不満や嫉妬を生まないようにする、という発想です。これは、家畜の品種改良に近い発想を人間に適用しているとも言えます。

子どもは共有される……生まれた子どもは、親のもとで育てられるのではなく、国家が設置した施設に集められ、共同で育てられます。誰がどの子の生物学的な親であるかは、本人たちにも分からないようにされます。

優れた者同士の子作りが優遇される……戦争などで功績を挙げた優秀な男性には、より多くの女性と交わる機会が特別に与えられるとされます。これも、優れた血統を増やそうとする発想の表れです。

「不適格」とされた子どもの扱い……劣った親から生まれた子どもや、身体に障害を持って生まれた子どもについて、プラトンは「人目につかない場所に隠す」といった表現を用いています。これが具体的に何を意味するのか(本当に遺棄や間引きを示唆しているのか)については、研究者の間でも解釈が分かれるところですが、いずれにせよ相当に踏み込んだ内容であることは間違いありません。

なぜここまで家族を解体しようとするのでしょうか。

プラトンの狙いは、「これは私の子ども」「これは私の妻」という私的な結びつきをなくすことで、守護者たち全員が国家全体をひとつの大きな家族のように感じるようにすることにあります。

私有財産だけでなく、家族という根源的な私的領域まで解体することで、個人の利害と国家全体の利害を完全に一致させようとしたのです。

③芸術や詩への検閲

プラトンはまた、詩や物語、音楽についても厳しい規制を主張します。ホメロスのような偉大な詩人の作品であっても、神々が嘘をついたり、争ったり、みっともない姿を見せたりする場面は、若い守護者の教育に悪影響を与えるという理由で削除の対象になります。

使ってよい音楽のトーンまで細かく指定され、人を軟弱にする、あるいは過度に感情を煽るとされる音楽は禁止されます。

芸術は「感情を動かす力」を持つからこそ、国家にとって危険なものとみなされ、厳しく管理されるべきだと考えられているのです。

④徹底した教育管理

守護者となる子どもたちには、幼少期から厳格な教育プログラムが課されます。

どんな物語を聞かせるか、どんな体育を行わせるか、何歳でどんな学問に触れさせるかまで、国家が細かく設計します。

個人の資質を見極めるための厳しい選抜も繰り返し行われ、ふるいにかけられなかった者は、統治者への道を閉ざされます。

スパルタの影響

ここまで見てくると、素朴な疑問が浮かんでくるのではないでしょうか。「理想」と呼ばれる国家が、なぜこれほどまでに個人の自由やプライバシーを制限するのか、と。

この息苦しさを理解するヒントのひとつが、当時のスパルタという国家の存在です。

スパルタは、厳格な軍事教育や共同生活、私有財産の制限など、プラトンの理想国家と重なる要素を数多く持つ国家として、古代ギリシアでは知られていました。プラトンがスパルタの制度から着想を得た部分はあるでしょう。

スパルタという現実がある以上、プラトンの思想は、当時の人間にはそこまで荒唐無稽には聞こえなかったという部分もあると思われます。

いずれにせよ、この理想国家の設計思想の根底には、「本当に優れた人間だけが正しい判断を下せる」という強い信念があります。そして、この信念こそが、次に見る『国家』の最も有名なテーマ、「哲学者による統治」へとつながっていくのです。

 

なぜ哲学者が国家を統治しなければならないのか

さて、ここまで見てきた理想国家には、ひとつの大きな謎が残っています。私有財産を捨て、家族すら解体してまで作り上げたこの国家を、いったい誰が統治するべきなのでしょうか。

プラトンの答えは、非常に有名な、そして当時としても衝撃的なものでした。

「哲学者が王とならない限り、あるいは王や権力者が哲学の精神を身につけない限り、国家に不幸が絶えることはない」

これが、いわゆる「哲人王」という考え方です。

「頭がいいから統治すべき」という話ではない

ここで注意したいのは、これは単に「哲学者は頭がいいから政治家に向いている」というような、素朴な話ではないということです。プラトンが言いたいのは、もっと踏み込んだことです。

彼にとって重要なのは、知識の量や論理的な賢さではありません。「本当に善いものとは何かを知っている人間が、国家を統治すべきだ」という点にあります。

では、「本当に善いものを知っている」とはどういうことなのでしょうか。ここからプラトンの議論は、政治論を離れて一気に形而上学的な領域へと踏み込んでいきます。

「善のイデア」という究極の知識

プラトンによれば、私たちが目にする美しいもの、正しいもの、優れたものは、すべて「本物」の劣化コピーのようなものです。

この世界のあらゆる善きものの背後には、その原型となる完全な存在、「善のイデア」があるとプラトンは考えます。

多くの人は、個別の美しいものや正しい行為を経験として知っているだけで、その根底にある「善そのもの」が何かを理解しているわけではありません。

プラトンにとって、哲学とはまさにこの「善のイデア」を認識しようとする営みです。そして、この認識に至った者だけが、何が本当に国家にとって善いことなのかを正しく判断できる、というのがプラトンの主張なのです。

洞窟の比喩

このプラトンの認識論を説明するために使われる、あまりにも有名な例え話が「洞窟の比喩」です。

想像してみてください。人々は生まれたときから洞窟の中に鎖でつながれ、壁だけを見つめさせられています。彼らの背後では火が燃えており、その火の前をいろいろな物体が通り過ぎるたびに、壁に影が映し出されます。鎖につながれた人々は、その影こそが現実のすべてだと信じ込んでいます。

ある日、一人が鎖を解かれ、洞窟の外へと連れ出されます。最初はまぶしすぎて何も見えませんが、やがて目が慣れてくると、彼は影の正体が単なる物体の投影に過ぎなかったことを知り、さらには太陽の光の中で、本物の世界そのものを見ることになります。

この人物が再び洞窟に戻り、「あれは影に過ぎない、本物はもっと違う」と仲間に伝えようとしても、洞窟の中の人々はまったく信じようとしません。それどころか、自分たちの世界を否定する彼を嘲笑することさえあります。

この比喩の中で、洞窟の中の影は私たちが日常経験している個々の事物、洞窟の外の世界は「イデア」の世界を表しています。そして、洞窟の外に出て真実を見た人物こそが、哲学者の姿なのです。哲学者とは、多くの人が当たり前だと思い込んでいる「影の世界」の先にある、本物の実在を見た人間だ、というわけです。

太陽の比喩と善のイデア

洞窟の比喩と対になって語られるのが、「太陽の比喩」です。

太陽が地上のあらゆるものを照らし出し、私たちがものを見ることを可能にしているように、「善のイデア」はあらゆる知識や真理を成り立たせる、根源的な存在だとプラトンは説明します。

太陽なしには何も見えないのと同じように、「善」を知らなければ、何が本当に正しく、美しく、有益なことなのかを、根本のところで理解することはできません。

だからこそ、この「善」を認識した哲学者だけが、国家にとって本当に必要な判断を下せる、というのがプラトンの結論です。

統治とは「面倒な義務」である

ここで興味深いのは、プラトンが描く哲学者は、決して権力を求めて統治者になるわけではないという点です。

洞窟の外の真実の世界を見てしまった哲学者にとって、洞窟の中に戻って政治に関わることは、むしろ気の進まないことです。

しかし、真実を知る者が統治しなければ、国家は無知な人間たちに導かれることになってしまう。それを避けるためにこそ、哲学者はやむなく統治という「義務」を引き受けるのだ、とプラトンは描いています。

このように、プラトンの理想国家における統治者は、単なる有能なリーダーではなく、「善そのもの」を認識した特別な人間として位置づけられています。

しかし、これは同時に、大きな問いを投げかけることにもなります。「本当に善を知っている人間などいるのか」「それを誰が判断するのか」といった疑問です。

そしてこの発想は、当時のアテナイで主流だった政治体制、すなわち民主政とは、真っ向から対立するものでした。次の章では、プラトンがなぜ民主政治を痛烈に批判したのかを見ていきます。

 

プラトンはなぜ民主主義を嫌ったのか

哲学者による統治を理想とするプラトンにとって、当然ながら、当時のアテナイで行われていた民主政治は、決して望ましい政治体制ではありませんでした。

それどころか、プラトンは『国家』の中で、民主政をかなり手厳しく批判しています。

民主政が独裁へと転落するプロセス

プラトンは、政治体制がどのように移り変わっていくかを論じる中で、民主政がやがて独裁政治(僭主政)へと転落していく過程を描いています。おおまかに言うと、次のような流れです。

民主政 → 民衆に迎合する政治 → 自由の過剰 → 混乱 → 独裁

まず民主政では、誰もが自由に発言し、自由に生きる権利を持ちます。この自由という価値そのものは素晴らしいものです。

しかし、この自由への欲求が行き過ぎると、あらゆる権威や規律に対する反発が強まっていきます。教師は生徒に媚びるようになり、親は子どもに気を遣うようになり、社会全体の秩序がゆるみ切ってしまう、とプラトンは指摘します。

このような「行き過ぎた自由」が支配する社会では、人々はもはや何が本当に自分たちのためになるのかを冷静に判断できなくなります。

そこに現れるのが、民衆の欲望や不満を巧みに利用し、耳障りのよい約束を並べる扇動的な指導者です。人々はこうした人物に熱狂的に支持を与え、気づいたときには、その人物が絶対的な権力を握る独裁者になっている、というのがプラトンの描くシナリオです。

つまりプラトンにとって、行き過ぎた自由と無秩序こそが、皮肉にも独裁を生み出す土壌になってしまうのです。

ソクラテスの死という個人的な経験

プラトンがこれほどまでに民主政治に不信感を抱いた背景には、彼自身の個人的な経験も深く関わっています。

プラトンの師であるソクラテスは、アテナイの民主政のもとで裁判にかけられ、死刑判決を受けて処刑されました。ソクラテスの「罪」とされたのは、若者を堕落させたこと、そして国家が認める神々を信じなかったことでした。

プラトンから見れば、ソクラテスは誰よりも誠実に真理を追い求めた人物でした。それにもかかわらず、多数決による民主政の裁判は、その人物を死に追いやってしまったのです。

この経験は、プラトンに「多数決」というものへの根深い不信感を植えつけたと考えられています。

多数の人間が正しいと思うことが、本当に正しいとは限らない。むしろ、多数派の判断は、扇動や感情に流されやすい危ういものではないか、というわけです。

「人気のある人」と「政治能力のある人」は同じなのか

プラトンが民主政に対して投げかける、もっとも鋭い問いのひとつが、これです。

「大衆に人気のある人」と「よい政治を行う能力のある人」は、同じなのだろうか?

民主政のもとでは、選挙や演説によって支持を集める能力が、そのまま権力への近道になります。

しかし、人々を惹きつける話し方が上手いことと、実際に国家を正しく導く知恵や判断力を持っていることは、まったく別の資質のはずです。

プラトンは、この二つを混同してしまう民主政の構造そのものに、根本的な欠陥があると考えました。

船の比喩

この問題を分かりやすく説明するために、プラトンは「船」の比喩を用います。

一隻の船を思い浮かべてください。船長は、耳が少し遠く、体格や視力もそれほど優れていないものの、船を操縦する知識や経験は誰よりも持っています。

ところが、乗組員たちは航海術についてまるで無知でありながら、船長の座を我こそはと奪い合っています。彼らは、酒や食べ物を気前よく振る舞い、機嫌のいいことを言う者を「操縦がうまい人物」だと持ち上げ、逆に星の動きや風、海流を読んで進路を判断しようとする、本当に船の操縦に必要な知識を語る者を「役に立たない人間」として遠ざけてしまいます。

この船こそが国家であり、乗組員たちが有権者、そして本当に航海術(統治の技術)を知る人物こそが、プラトンの言う「哲学者」にあたります。

この比喩を通じてプラトンが訴えたかったのは、統治という営みは、本来、専門的な知識や訓練を必要とする一種の「技術」であるはずなのに、民主政治のもとでは、その専門性がまったく評価されないばかりか、むしろ軽視されてしまう、という危機感でした。

このように、プラトンにとって民主政とは、「誰もが政治について語る資格がある」という建前のもとで、実際には政治にもっとも必要な専門的な知恵が軽んじられてしまう、危うい制度だったのです。

さて、ここまで政治体制の話を見てきましたが、『国家』という本の真の目的は、あくまで「正義とは何か」という問いに答えることにありました。次の章では、国家論としてここまで積み上げてきた議論を、いよいよ個人の魂の話へと引き戻していきます。

 

『国家』の核心 正義とは「魂の調和」である

ここまで、生産者・軍人・統治者という三つの階層からなる理想国家の姿や、その国家を誰が統治すべきかという議論、さらには民主政への批判までを見てきました。

しかし忘れてはならないのは、これらすべてが、実は「正義とは何か」という、もっとも根本的な問いに答えるための壮大な準備作業だったという点です。

ここでいよいよ、プラトンは国家論から人間論へと議論を引き戻していきます。

国家の構造と魂の構造は対応している

プラトンは、国家という「大きな文字」の中に見出した構造を、そのまま人間の魂という「小さな文字」に当てはめていきます。

国家が三つの階層から成り立っていたように、一人ひとりの人間の魂もまた、三つの部分から成り立っているとプラトンは考えました。

統治者=理性

守護者(軍人)=気概

生産者=欲望

理性とは、物事を深く考え、何が本当に正しく善いことなのかを判断する部分です。

気概とは、勇気や名誉心、怒りといった、意志の力に関わる部分です。

そして欲望とは、食べたい、眠りたい、お金が欲しいといった、身体的・物質的な欲求に関わる部分です。

国家がうまく機能するためには、統治者が全体を導き、守護者がそれを支え、生産者がそれぞれの仕事に励むという役割分担が必要だったように、一人の人間の内面においても、この三つの部分がそれぞれふさわしい形で働く必要がある、とプラトンは考えます。

個人における正義とは何か

では、魂における「正義」とは、具体的にどのような状態を指すのでしょうか。プラトンの答えは、国家の場合とまったく同じ論理構造を持っています。

理性が全体を統治し、気概がそれを支え、欲望が理性の導きに従って適切な範囲にとどまっている状態。

これこそが、個人における正義だとプラトンは言います。理性が、気概の力を借りながら、欲望を上手にコントロールしている状態。

逆に言えば、欲望が理性を押しのけて暴走してしまったり、気概(怒りや衝動)が理性の判断を無視して暴れ出してしまったりする状態は、魂の中に「不正」が生じている状態だということになります。

たとえば、目先の快楽に流されて理性的な判断を見失ってしまうとき、あるいは一時の怒りに任せて後悔するような行動をとってしまうとき、それはまさに、魂の中のバランスが崩れている瞬間だと言えるでしょう。

プラトンにとって正義とは、外側から与えられるルールを守ることというより、自分自身の内側にある三つの部分が、それぞれふさわしい役割を果たし、調和している状態そのものを指しているのです。

「正しい人は幸福なのか」という最初の問いへの答え

こうしてプラトンは、あの最初の問いにようやく答えを出します。「正しい人間と不正な人間では、どちらが幸福なのか」という問いです。

魂の中で理性がしっかりと働き、欲望や気概が適切にコントロールされている人、つまり「正しい人」こそが、本当の意味で調和のとれた、健全な魂を持っている人間である。そして、この魂の調和こそが、何よりの幸福の源泉なのだ、というのがプラトンの結論です。

不正を働く人間は、たとえ他人の目をごまかし、財産や地位を手に入れて得をしたように見えたとしても、その魂の内側では、欲望や気概が理性を押しのけて暴走し、絶えず内部抗争を起こしている状態にあります。

プラトンにとって、これは決して幸福な状態とは言えません。どれだけ外面的に成功しているように見えても、魂の内側が乱れている人間は、本当の意味で幸福にはなれないというのです。

さて、ここまで『国家』の全体像を追ってきましたが、最後に、この理想国家というアイデアを、現代の視点から改めて評価してみたいと思います。

 

プラトンの理想国家は本当に「理想」なのか

ここまで『国家』の議論をたどってきましたが、最後に、この壮大な思考実験を現代の視点から改めて評価してみたいと思います。

全体主義的だという批判

プラトンの理想国家に対して、もっとも頻繁に投げかけられる批判が、これです。20世紀の哲学者カール・ポパーなどは、プラトンの理想国家を、個人よりも国家全体を優先する全体主義の源流のひとつとして厳しく批判しました。

たしかに、私たちがここまで見てきた内容を振り返ると、この批判にはうなずける部分が多くあります。

個人の職業選択の自由はほとんど認められず、私有財産は否定され、家族という私的な結びつきさえも解体の対象になっていました。芸術や詩は、国家にとって「都合のよいもの」だけが許され、それ以外は検閲されます。個人がどう生きるか、何を感じ、何を美しいと思うかといった内面の領域にまで、国家が深く介入してくるのです。

「正しいことを知っている人間が統治する」という発想の危うさ

もうひとつ、現代的な視点から見て見過ごせないのが、「哲学者王」という発想そのものに潜む危うさです。

「本当に善を知っている人間が統治すべきだ」という考え方は、一見すると理にかなっているように思えます。しかし、これは裏を返せば、「自分こそが正しいことを知っている」と信じる人間に、絶対的な権力を与えることを正当化する論理にもなりかねません。

歴史を振り返れば、「自分たちだけが正しい真理を知っている」と確信した指導者や体制が、その確信を根拠に、異論を封じ、強権的な統治を行った例は少なくありません。

プラトンが理想とした「善を知る哲学者」による統治は、現実には、誰がその「善」を判断する資格を持つのかという、答えのない問題を抱え続けることになります。

それでも消えない「専門知識のない人間が政治をしてよいのか」という疑問

一方で、プラトンが投げかけた問い自体を、単純に「時代遅れの発想」として片付けてしまうのも、少しもったいない気がします。

プラトンが「船の比喩」で示したように、統治という営みに専門的な知識や能力が必要だという指摘は、現代の民主政治が抱える課題とも、決して無関係ではありません。

ポピュリズムの台頭、専門家の意見が軽視される風潮、根拠のない情報が支持を集めてしまう現象など、「大衆に人気のある人」と「本当に統治能力のある人」は同じなのか、というプラトンの問いは、2000年以上の時を経た今も、なお有効です。

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哲学

Posted by chaco