アラン・カルデックの『天国と地獄』を読んでみた【内容紹介】
アラン・カルデック(1804-1869)は、19世紀のフランスで活動したスピリチュアリスト。スピリティズムの創始者として知られます。
代表作は『霊の書』、『霊媒の書』、『天国と地獄』など。『霊の書』は世界三大霊訓のひとつとしても有名(他の二つは「シルバーバーチの霊訓」と「モーゼスの霊訓」)。
チャネリングや自動書記によって霊と対話し、そこから知識を得るアプローチ。そうして得た知見に対して、かなり科学的ないし哲学的な考察を加えていくところにも特徴があります。カルデックを始めとして、19世紀のスピリチュアリズムはアカデミックな世界の知識人たちが大きな役割を果たします。
まず『天国と地獄』から読んでみました。
なお僕が読んだのは英語版です。英訳版なら無料でダウンロードできる↓
このような著作については、たとえそれが本当に霊的次元から与えられた情報であったとしても、すべてを100%鵜呑みにするのはやめたほうがいいと思います。
その理由は大きく2つ。
・霊媒やその解釈者の主観が混じり込んでいるから
・当時と今とではあの世の事情も変化している可能性が高いから
霊媒やその言葉の解釈に主観が混じり込むというのは、アラン・カルデックの著作にかぎらず、人間がなす霊的コミュニケーションのすべての言えること。人間であるかぎりは、というか神ならざる存在であるかぎりは、100%厳密に間違いのない真理というのは把捉不可能。
あくまでも真理をざっくりと指し示す羅針盤として参考にする程度にとどめるのがいいと思います。天気予報を見る感じですかね。
あの世のほうの変化については、たとえば吉濱ツトムの著作などを参考にすると見えてくるところが多いです。簡単にいうと、幽界や冥界といった質の低い領域が消えていってるんですね。
また本書に関しては「一般の霊にインタビューしている」という事情も大きいです。
普通こういうチャネリング系のものは、霊界の高度な霊とつながったり、進んだ文明の異星人とつながったりすることが多いんですよね。
しかしアラン・カルデックは普通の人間たちの霊を数多く召喚し、彼らにインタビューしています。
彼らの知識というのは霊格の高い天使だとか異星人だとかに比べればどうしても不完全なものになります。したがってその知見を完全に真に受けることはしないほうがいいんです。
天使と悪魔
・天使に相当する存在は実在する。ただしキリスト教会が定めるような、人間と切り離された存在ではない。そうではなく、われわれのような魂が成長しまくったすがたが天使である。
・われわれの住居は地球だけではない。他の星や世界にも住んでいたことはある。今はもう存在しない星や、今はまだ存在しない星にも。
・われわれよりもっと昔に、成長のプロセスをたどり終えた魂たちも存在すると考えるのが自然。彼らが天使である。
このへんの説明を聞くと仏教でいう「菩薩」とそっくり。というか、天使と菩薩はおそらく同一の存在を指し示すことばなのだと思われます。「宇宙人」と被る部分もあるかもしれない。
・悪魔もわれわれの一種。マイナス方向へと成長してしまった魂たちのこと。キリスト教会が定めるような、人間と切り離された存在ではない。
生と死の狭間で
・死の苦しみは生への執着の度合いで変わってくる。生への執着が強いほど魂は身体との結びつきを断ち切るのに苦労し、苦しみは大きくなる。逆に執着の少ない人の場合、死への移行は夢から覚めるのと変わらない。
バシャールの言葉を借りれば、死とは扉を開けて別の部屋に移動するようなもの。
・死後の混乱状態は大多数の人が経験する。要するに自分がどういう状態にいるのかわからないからそうなる。人によっては数時間で状況を理解する。しかし何年もその状態にとどまる魂もいる。とくに自殺者はその傾向が強い。
おそらくこれが地縛霊的なものの正体。近代人は死後の世界についての知識が少ないためこの状態に陥る魂が多い、とスウェーデンボルグは書いていました。アラン・カルデックの本や僕のこの文章を読んでいるような人なら、スムーズにあの世に渡っていくと思いますが。
・愛や理解をともなう召喚(降霊術や霊能者による語りかけ)は、そのような魂を停滞状態から解き放つ力をもちうる。
・魂に性別はない。ただし死後の世界についての知識が乏しい状態で死に混乱状態にある魂は、生前の性別を引きずり、自分を男ないし女であると錯覚している可能性はある。
幸福な霊、普通の霊、不幸な霊、自殺者の霊、悔いる犯罪者の霊
次に召喚された霊へのインタビューパート。
・自殺者の魂は身体から離れられない。本来の寿命のぶんだけ身体に縛り付けられ苦しむことになる。
・自殺というのは、見て明らかに自殺であるとわかる形態だけに限らない。実質的に自殺であるような生き方および死に方がある。
・逆に他者を救うための自己犠牲の場合は自殺と見なされない場合がある。その場合は死後に苦しみはない、もしくは軽減される。
・重要なのはミッションを投げ出さないこと。そして運命(どんな出来事の奥底にもある隠された意図や意味)を信頼すること。
・自殺をしないことがテーマになっている人生がある。そのような人生では自殺願望が試練として現れることもある。
色んなケースが扱われています。子供を亡くした悲しみから自殺した母親、心中した恋人同士、恋人の策略に惑わされて命をたった男性など。
残念ながらいずれの場合もペナルティはある模様。ただしすべてが一様に扱われるわけではないようです。愛ゆえの自殺は罪が軽くなると明言されています。人生の苦難から逃げ出すための自殺がもっとも大きなペナルティを負うらしい。
とはいえ永遠の責苦のようなものはなく、最終的にはかならず救われます。ただし本人の魂はそれを理解していないことが多く、「この苦しみがずっと続くのか」という錯覚がまた責苦の一環になりがち。
本書を読むと「自殺はやめよう」と思えますよ。
よく「生きていればいいことがあるから死ぬな」みたいなことが言われますが、それはあまり説得力がないんですよね。確かにいいことがあるかもしれませんが、ないかもしれない。
自殺が駄目というのはそういう次元の話じゃないんです。むしろ、死が訪れるまでじっと耐えきること、それ自体に巨大な価値があるということ。高地トレーニングみたいなものです。
途中、殺人犯が「また地上に生まれますか?」と聞かれて「はい、そう頼みました」と答えるシーンがあります。「次の人生では殺人の被害者になることまたはその可能性にさらされていることを望みます」と。この辺も印象的。
・死者の霊も時間を感じる(一部の高度な霊は例外)。とくに苦しい時間は長く感じる。
・苦しみのなかにある死者の霊を救うには祈ること。ただし霊の利己的な望みにおもねるのは間違い。霊の精神的進化と救済が達成されるようにと祈る。
・後悔や反省の見られない霊に祈りは効かない。そのような霊はずっとその状態に放っておかれる。ただし精神に変化が見られたらただちに救済が発動しはじめる。永遠に救われない魂は存在しない。
・知的精神的な障害をもっている人でも、霊に障害があるわけではない。
目が見えない人でもあの世では目が見えるようになり(というかわれわれとは違う次元の視力を獲得する)、耳が聞こえない人でもあの世では耳が聞こえるようになる(というかわれわれとは次元の違う聴力を獲得する)。同じように、知的精神的に障害をもっていた人でもあの世では高度な思考力を取り戻すようです。
その他スピリチュアル本のおすすめは以下の記事を参照のこと。