『テーマパーク化する地球』公的でない私が作り出す公共性【書評】
東浩紀の『テーマパーク化する地球』を読みました。
震災以降に発表されたエッセイやインタビューなどをまとめた本です。こういう企画は入門書として読めるから好き。
とくにおもしろかったのは以下の4本ですかね。
・「『一般意志2.0再考』講談社文庫版へのあとがき」
・「政治のなかの文学の場所 加藤典洋『戦後的思考』講談社文芸文庫版解説」
・「運営と制作の一致、あるいは等価交換の外部について」
・「デッドレターとしての哲学」
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加藤典洋の公共性論
なかでも「政治のなかの文学の場所」は、直前に読んでいた長谷川宏の『丸山眞男をどう読むか』と響き合うところがあって、興味深く読めました。
これは加藤典洋の『戦後的思考』によせた解説なのですが、東によると、加藤はここで公的でない私からなる公共性を模索しているといいます。
ふつう、公共性といえば公的な主体が織りなすものですよね。そうやって公共性を取得し、政治のアリーナに参加するのが人間である。これがアーレントやハーバーマス、日本でいえば丸山眞男のような近代主義者が主唱することです。
ところが加藤によると、このような公的空間は明確な論理を前提にしており、内と外を区別する境界線がかならず引かれてしまうものだとのこと。
本当に重要なのはそのような共同体からこぼれ落ちてしまった曖昧なものなのであり(とくに戦後日本という空間にとっては)、それを救い出すことが真の公共性だ、という方向に話が進みます。
そこで登場するのが文学の言葉なのですね。明確な論理によってはじき出された曖昧な真理を、文学であれば拾い上げることができる。
文学は公的空間の手前にある私と公的空間の向こうにある公共性を、ダイレクトに直結できる。
私の徹底による公の創出。これこそがルソーやヘーゲルの発見だったと加藤(を読む東)は言います。
またこの関心は、『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』『ゲンロン0』などで東浩紀自身が追求しているものでもありますね。
長谷川宏と似てる
このような文学観についてはリチャード・ローティも想起されますが、僕が真っ先に思い出したのが長谷川宏ですね。
長谷川は『丸山眞男をどう読むか』(講談社現代新書)のなかで、日本の近代小説いわゆる私小説を擁護していました。
ふつう私小説というと公的空間からの逃走であり、非近代的だとされます。実際、丸山眞男などはそのような評価を下し、私小説を批判しています。
しかし長谷川によると、明治の近代システムに参加した連中というのは、外面ばかりが進歩的で、精神的には近代性のかけらもなかったのですね。
むしろ明治の近代システムから落ちこぼれ、個の世界に閉じこもり、自分の世界を育てようとした文学者たちにこそ、長谷川は近代的精神の成長を見出します。
そしてそのような文学者たちが獲得した一般民衆との絆、それこそが日本の近代化を表現するものだと言うわけです。
周知のように長谷川宏といえばヘーゲルの研究や翻訳で有名です。このような論理の行き方は、やはりヘーゲルから出てくるのかも。
加藤(を読む東)のヘーゲル理解は、この長谷川の指向性と相通じるものがある気がします。
東浩紀の過去作を読み返したくなる
東浩紀の『ゲンロン0』はドストエフスキー論でもあるらしく、そこに興味を持ったのでした。そして『ゲンロン0』の予習のために先にこの『テーマパーク化する地球』を読んでおこうと。
しかし本作を読むと、『ゲンロン0』よりも先に過去の東浩紀作品を読み返したくなってきます。
とくに『一般意志2.0』。あれは誤解にさらされまくった本とのことですが(くわしくは本書参照)、たぶん僕も誤解してたと思う。
東浩紀に関心のある人には、柄谷行人の本も読んでもらいたいです。柄谷は東の師にあたるような存在で、本書でもそこかしこに名前が出てきます。
平易な文体で高度な理論的内容を語るという東浩紀の技は、柄谷から来ていると思います。
ついでに言っておくと、「観光客の哲学」の「観光客」とは柄谷の「他者」を言い換えたものにほかなりません。そして今気づいたのですが、公的でない私による公共性というのは、柄谷もソクラテスに託して論じていました。