カントの『判断力批判』をわかりやすく解説【純粋理性批判と実践理性批判の接続】
カントの三批判書といえば『純粋理性批判』、『実践理性批判』、そして『判断力批判』です。
『純粋理性批判』と『実践理性批判』はある程度どういう話をしているのかつかめても、『判断力批判』になると何をやっているのかさえよくわからない。こういう人は多いのではないでしょうか。僕はまさしくこれです。
岩崎武雄の『カント』(勁草書房)を再読したところ、『判断力批判』の要点がわかりやすくまとまっていました。忘れないうちに記録しておきます。
といっても僕の勝手なアレンジがだいぶ入っていますから、正確な知識がほしい人は岩崎の本を読んでみることをおすすめします。怖ろしいほどの名著です。
さて『判断力批判』は『純粋理性批判』と『実践理性批判』をつなぐものですから、まずはこの2冊のポイントを確認しておきます。
なおこれからは哲学の解説記事はnoteに書いていきます↓
『純粋理性批判』のポイント
人間は物自体を認識できない。人間が認識するのは現象だけだ。そしてこれが科学的知識の客観性と普遍性を保証する。
これが『純粋理性批判』の要点でした。
感性が物自体からデータを入手し、それを悟性が加工して現象界が生まれます。人間が認識できるのはこの現象界だけです。
しかし悟性の加工のところで現象には客観性がそなわり、こうして科学的知識は普遍性を保証されたのでした。「なぜ数学が自然現象に適用できるのか」という謎も、カントの発想によれば一気に解決します。
人間は外界をありのままで認識できない、しかしだからこそ普遍的な科学が成立する。こう考えるところが特徴。
一方で、概念を使って物自体を語ろうとすると悪しき形而上学が生まれるとカントはいいます。物自体については何も語り得ないのだから、理論的認識は現象界にとどまらなくてはならない。
こうして従来の形而上学はカントによって息の根を止められた形になりました。
関連:カント『純粋理性批判』をわかりやすく解説【理性の正しい使い方】
『実践理性批判』のポイント
カントは『純粋理性批判』によって従来の形而上学の息の根を止めましたが、彼は単なる実証主義者みたいな存在だったのではありません。
むしろカントの真の目的は、新しい形而上学を自らの手で打ち立てることでした。
物自体を理論的に認識することはできない。しかし実践的に、人間は物自体と関わっている。ここから実践的形而上学が可能となる。これがカントの発想です。
人間は現象界の傾向性に流され、欲望のまま好き勝手に振る舞っていますが、ただそれだけの存在ではありません。人間の理性は物自体の世界に属しているからです。
そしてこの物自体の世界から訪れるメッセージこそが道徳法則にほかなりません。
これが『実践理性批判』のコアとなる発想です。
なぜ物自体界のメッセージが道徳的であると言えるんだろう?悪魔がメッセージを送っているかもしれないのに。こうツッコミをいれたのはショーペンハウアーでした。
『判断力批判』のポイント
ここで問題が発生します。物自体界の道徳原理が、感性的な現象界に影響を与えることがなぜ可能なのか?
物自体界と現象界はまったく異なる原理で存在しているはず。なのにどうして両者がコーディネート可能なのか?
こういう問題の立て方がいかにもカント的なのですが(たとえば純粋理性批判でも、まったく異なる能力である悟性と感性がなぜ協調できるのかという「問題」で七転八倒)、とにかくカントは超感性界と感性界の統一という一大テーマに取り組むことになったのです。
このプロジェクトこそが『判断力批判』に他なりません。
判断力批判は純粋理性批判と実践理性批判を結合させようとしています。
なぜ物自体界の原理が現象界に適用されうるのか?カントが与えた答えは、「自然の合目的性」でした。
自然界がその底の底において物自体界の道徳法則と調和する合目的性をもっているならば、自然界と物自体界は矛盾しない。これがカントの発想です。
では自然の合目的性とはなんでしょうか?これは人間の判断力が自然のうちに読み込むものです。
判断力とは感性と悟性の中間に位置し、両者を結びつける能力でした。この判断力には大きく分けて2つの種類があります。
ひとつは規定的判断力。より普遍的な概念に、特殊な事象を結びつけていく能力です。たとえば生物の概念にそこらのイヌやネコを結びつけるような。
もうひとつは反省的判断力。これは規定的判断力とは逆に、特殊から普遍を導き出す能力です。たとえば近所のタマとミケを観察し、そこからネコの概念を生み出すような。
このうち反省的判断力のなかに「自然の合目的性」の原理が備わっています。なぜ自然の合目的性という概念が反省的判断力のしわざなのかはパッと見わかりにくいんですが、個々の自然現象を観察しそこから「自然の合目的性」という大きな概念を導き出すイメージだからです。特殊→普遍になってますよね。
自然の合目的性に当たるものとしてカントが挙げるのは、美と有機体です。美しいものにせよ有機体にせよ、明らかに目的をもって作られているように見える。単なる偶然でそのような形になったとはどうしても信じられない、と。
『判断力批判』は個々の議論がどう結びついているのかわかりにくいんですが、美や有機体の話もこうやって根本テーマと関連しているわけですね。
ここで重要なのは、いずれも判断力が外界に目的論的構造を見出しているという点。カントは「自然には目的論的構造が客観的にそなわっている」と言っているのではありません。
そうではなく、反省的判断力が自然に意味づけをしているんですね。
判断力批判の失敗
なぜ物自体界の原理が現象界に適用されうるのか。この問題を解決し、『純粋理性批判』と『実践理性批判』を結びつけるのが『判断力批判』の狙いでした。
それは成功しているのでしょうか?
岩崎武雄はカントの議論を批判しています。合目的性が自然の根底に客観的に存在しているのなら、上記の問題は解決できたといえるかもしれない。しかしカントにおいて、自然の合目的性は主観による意味づけでしかない。それでは物自体界と現象界の接続の問題は乗り越えられない、と。
この批判はたしかにしっくりきますよね。カントの議論を追ってるときの違和感を言葉にしてくれた感じ。
解決すべきは物自体界と現象界の接続の問題でした。いくら主観が外界に意味づけをしたとしても、物自体と現象の断絶にはまったく関係がないと思うんですよね。それはどこまでも現象の内部にとどまり、橋渡しの機能など果たせないのですから。
判断力批判からドイツ観念論へ
フィヒテ以降のドイツ観念論は、カントの『判断力批判』をここから拡張したものに他なりません。要するに自然の合目的性を客観的な原理と考えるのです。
カントは自然のもつ合目的性をあくまでも主観が自然に与えた意味づけにすぎないと考えたのでしたが、ドイツ観念論はこの制限を突破してしまいます。いわばカント先生の忠告を振り切って暴走した感じ。
たとえばカントは自然の最終目的として人間の道徳的完成と文化の発達を挙げます。まさに、自然の根底に道徳法則と合致する目的性を見出している形ですね。
カントにおいてはこれも反省的判断力の意味づけにすぎませんが、これを客観的な原理だと考えるだけで、そのままヘーゲルの基本思想になります。
ドイツ観念論についても岩崎武雄の研究書がわかりやすいです。
タイトルは『カントからヘーゲルへ』。
カントの部分については本書からの抜粋にすぎませんが、フィヒテとシェリングの解説は貴重。ヘーゲルの章もカント的な観点からの批判がおもしろいです。
これからは哲学の解説記事はnoteに書いていきます↓