フロイト『モーセと一神教』ユダヤ教の起源はエジプトか?
精神分析の創始者といえばフロイト。
彼がユダヤ教という宗教の起源について語った『モーセと一神教』という名著(迷著)があります。
長いこと積ん読してありましたが、読んでみたらこれが面白い。説得力があるかは微妙なところですが、発想がファンタスティックで刺激的なことは確か。
僕が読んだのはちくま学芸文庫バージョンですが、先日、光文社古典新訳文庫から新訳が出た模様。光文社古典新訳文庫は訳のわかりやすさと解説の充実ぶりに定評があるので、これから読む人はそっちにしたほうがいいかも。
本書の内容を簡単にまとめると、次のようになります。
ユダヤ教の起源はエジプトだ。モーセというエジプト人がそれをユダヤ人にもたらした。ユダヤ人たちはモーセを殺害することで一神教を葬ったつもりでいたが、やがて抑圧された記憶が回帰し、ユダヤの神ヤハウェはモーセの神に取り込まれた。こうして一神教たるユダヤ教が誕生した。
ほんとかよって感じですが、以下、もう少しくわしく内容を紹介します。
モーセはエジプト人だった?
モーセはエジプト系の名前、これは定説です。現在でもそう言われていますからね。
しかし、フロイトはここから独創的な空想を爆発させます。フロイトの思考は以下のように展開します。
エジプトの名前なんだから、モーセはエジプト人なのでは?
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ということは、モーセがユダヤ人たちに与えた宗教はエジプトの宗教では?
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でもユダヤ教とエジプトの宗教じゃ性質が違いすぎるからおかしいか…いや待てよ、そういえばエジプトに一神教があった…アメンホテプ4世のアートン教だ。
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モーセはアメンホテプ4世が引き起こした宗教改革の一員だったのでは。
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エジプトで挫折した改革を、モーセはユダヤにおいて続行したのでは。
ここからさらにひねりがあります。
当時ゼリンという学者が「モーセはユダヤ人たちによって殺害された」という説を唱えたのですが、フロイトはそれを採用します。
アメンホテプ4世の一神教改革が反動勢力の抵抗によって一代で潰えたのと同じく、モーセもユダヤの反動勢力の抵抗にあった。そして殺害されたというのです。
ユダヤ人たちは、モーセがエジプトからもってきた一神教に馴染むことができなかった。ゆえに、それをモーセごと抹殺したのです。
こうしてユダヤの宗教から一神教の性格は消え、従来の民族神ヤハウェが支配することになります。
このヤハウェは部族の神であり、ありきたりなものです。当時は部族ごとの神が争っていました。神は部族の数だけ存在するわけで、一神教にはほど遠いですね。ヤハウェというのは、数ある神々のなかのひとつです。
旧約聖書を読むと、初期のヤハウェには部族神としての性格が強烈に残っています。
モーセの記憶は抹消されるのではなく、このヤハウェ教の始祖として位置づけられます。いわば起源が捏造されたとフロイトは考えるわけです。
ヤハウェ教には、ふたりの創始者がいた。本当の創始者は忘れ去られたが、モーセが偽りの創始者としてその起源に位置づけられた、と。
こうしてモーセの一神教改革は完全に潰えたかに見えましたが、やがてモーセの神が復活し、民族神ヤハウェを追いやるのです。
そしてわれわれがよく知る、普遍宗教としての一神教が誕生します。
なぜモーセの神は復活したのか?
フロイトはこの現象を、抑圧されたものの回帰と呼びます。
抑圧されたものの回帰
フロイトは精神分析の臨床で、ある知見を手にしていました。
トラウマを抱えた患者は、その記憶を抑圧する。しかしそうやって抑圧された記憶は、なんらかの形でその後も回帰しつづける。
このような現象をフロイトは観察し、それを抑圧されたものの回帰と名付けました。
そしてフロイトは、この現象をユダヤ民族に当てはめます。
モーセ殺害は、ユダヤ人たちのトラウマになり、彼らはその記憶を抑圧した。しかし抑圧された記憶はやがて回帰し、モーセの教えがユダヤの宗教を変質させた、と。
部族の神ヤハウェがモーセの神に取り込まれ、ヤハウェ教が一神教へと変化したわけです。
ここでのポイントは、個人の心理学を民族集団に適用しているところですね。これは妥当なのか?フロイト自身もこの点をくわしく弁解しています。
民族のレベルで、抑圧された記憶が回帰することなんであるのでしょうか?それも世代をまたいで?にわかには信じられませんね。
ただ最近の生物学の研究によると、トラウマはDNAに保存され子孫に伝達されるらしい。となると、フロイトの説も見た目ほどには荒唐無稽ではないのかもしれません。
実証研究入門には『聖書時代史 旧約篇』がおすすめ
フロイトの『モーセと一神教』は、現在の聖書研究や考古学によって否定される部分も多いと思います。
それにフロイトの宗教理解はかなり浅く、宗教を理解することにもつながらないでしょうね。
じゃあ本書に読む価値はあるのかと言われそうですが、推理小説だと思って読めばいいと思います。抜群におもしろい。
ウィトゲンシュタインはどこかで、「フロイトの言っていることには賛成しかねるが、彼の想像力の天才性には舌を巻かざるを得ない」みたいなことを言っていました。『モーセと一神教』を読むと、ウィトゲンシュタインの発言に同意したくなると思います。
もっと実証的な研究はないのかという人には、山我哲雄の『聖書時代史 旧約篇』がおすすめ。
ユダヤ教について、考古学や歴史学から得られた最新の実証成果を教えてくれます。地味なタイトルですが、これも読み物としておもしろいですよ。