ドストエフスキー『死の家の記録』 トルストイも認めた名作
ドストエフスキーの『死の家の記録』(新潮文庫)を読みました。
たぶんこれで3回目。いずれもこの新潮文庫バージョンで読んでいます。訳文の美しさがすばらしい。ただ、文字がページにぎっしりなのが短所か。目が疲れます。
この作品はドストエフスキーの実体験に基づいたもので、彼が政治犯として監獄に囚われていたときの記録が、少々のアレンジとともに書きとめられています。
僕の中ではあまり大きな存在の作品ではなかったのですが(そういう人が多いのでは?)、今回の再読でまったく印象が変わってしまいました。この作品こそがドストエフスキーを読み解くカギなんじゃないかとさえ思えます。
おそらくドストエフスキーは、この監獄体験をインスピレーションの源にしています。
わかりやすいのはキャラクター。
本作にはタタール人のアレイと呼ばれる人物が登場しますが、おそらくこの人物こそが『カラマーゾフの兄弟』に出てくるアリョーシャ(アレクセイ・カラマーゾフ)のモデルでしょう。
悪人もそうですね。監獄だから当然ですが、本作には常軌を逸した悪人や変人が次々に登場する。彼らがドストエフスキー作品に登場する悪人たちのモデルになっているに違いありません。
ドストエフスキー作品に登場する人物はそのリアリティで有名ですよね。異常な人物像ばかりなのに、なぜかリアリティがある。
その創作の秘密はここにあると思います。ドストエフスキーは過去に出会った人物を引っ張ってきて、彼らを作品のなかで動かしているのです。「あの人物ならどう動くだろう」とか「あの人物をこういう体験に直面させたらどうなるだろう」というふうに。だから血肉を感じられるのだと思う。
埴谷雄高の『死霊』と比較してみるとわかりやすいです。
埴谷の『死霊』はドストエフスキーのスタイルを真似た「思想小説」だと言われます。しかし実際に読んでみればわかるように、その感触はまったくドストエフスキー的ではありませんね。
哲学的な対話を無理に小説の形式に落とし込んでいるだけという感じがするのです。登場人物にしても、観念に服を着せただけという感じ(本人もそう認めている)。
これはドストエフスキーの行き方とはまったく違いますね。ドストエフスキーの場合、思想的な内容を語る場合でも、観念に服を着せただけというふうにはならない。
そうではなく、過去の実在人物を持ち出してきて、彼らに思想を語らせるのです。すると、作品のなかでそれぞれの思想が受肉化されて動き回っているような感じになる。
そして持ち出してくる人物モデルがやたらと豊富で深みがあるのは、彼の獄中体験のおかげに違いありません。
どんな不幸にも必然の意味があるとはよく言われることですが、ドストエフスキーの監獄体験ほどその意味が明快に浮かび上がってくる例は珍しいと思います。
ドストエフスキーが監獄に囚われるに至った経緯をくわしく知りたい人は、彼の伝記を読むのがいいです。
おすすめはアンリ・トロワイヤの『ドストエフスキー伝』。一つの文学作品としても楽しめる、美しい伝記です。
それにしてもドストエフスキーの作品は読んでいて心地が良いです。なんというか病院とか保健室に通じるものがある気がする。社会の外、時間の外にある世界、という感じ。
カントの言葉を借りて「崇高」さがあると表現してもいいかも。カントによると、人間のスケールに収まるものが「美」で、そのスケールを超越すると「崇高」になるんですね。なんだかわかんないけどとにかくすげえ、みたいな。
ドストエフスキーの作品には明らかにそのレベルのパワーがあると思う。
他にそのようなエネルギーを秘めた作品を生み出す作家というと、僕が知る限りではシェイクスピアぐらいしかいませんね。