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井筒俊彦とプロティノス『神秘哲学 ギリシアの部』

2024年7月14日

現代の東洋哲学を代表する天才といえば井筒俊彦。

そして彼のデビュー作が『神秘哲学』(岩波文庫)です。井筒といえばイスラム哲学の分野で有名ですが、彼が最初に取り上げたのは実はギリシア哲学でした。

ギリシア哲学のコアには神秘主義的な体験があるというのがその趣旨。その体験のリアリティからいかにそれぞれの哲学体系が紡ぎ出されてきているかが解説されています。

第一部がソクラテス以前の哲学者、第二部がプラトン、第三部がアリストテレス、最後の第四部がプロティノスという構成。

アリストテレスを神秘主義の観点から見ていくのは珍しいですよね。僕はそれが気になって本書を読んだのでした。

以前アリストテレスのパートまで読んで残りを積読していたのですが、それを今回崩したかたち。プロティノスの章もちゃんと読んでみました。

上記の構成からもわかるとおり、井筒はプロティノスをギリシア哲学の大成者として捉えています。プロティノスは東洋思想の影響がよく指摘されます。しかし井筒によれば、それは枝葉の部分にすぎないと。

ギリシア哲学のコアは神秘哲学であり、プロティノスの思想はそれを最大の高みにまでもたらしたものだ、というのが井筒の理解です。

プロティノスの流出論

プロティノスは3世紀ローマ帝国の哲学者です(拠点はエジプトのアレキサンドリア)。

理論的な思索で新プラトン主義を完成させたうえ、神秘主義的な体験においても深いものをもっていたことで知られます。宗教的なグル(導師)に近い感じ。

その哲学理論は流出論(発出論)として有名。

神はそれだけで完璧な存在なのに、どうしてわざわざ不完全な世界を生じさせる必要があったのだろう?これは世界中の宗教や哲学で見られる重要な問いですよね。これに答えるのが流出論です。

一番上に「一者」があり(プロティノスはここで神という言葉は使わない)、次にヌース=叡智(第2の神とも呼ばれる)、その下に霊魂、自然と続き、最後に質料(アリストテレス用語でイデアがこの自然界に具現化されるための材料)が来る階層構造になっています。

一者から下位の要素が流れ出てくる感じ。だからプロティノスの流出論と呼ばれるわけです。

ただし一者はすべてを包み込む無限(ヘーゲルのいう真無限構造)であり、最下位の自然や質料といえども一者から離れて存在するわけではありませんが。

アリストテレスは神を「思惟の思惟」と表現しました。プロティノスはそれに対して、一者が思惟を超えていることを強調します。思惟や言葉で捉えられるものは無限ではありえないと。

一者は語りえぬものであり、否定神学的に指し示されるほかないというのがプロティノスの立場です。流出論ですらメタファーにすぎないんですね。

一者はすべての存在者にとって憧れの対象であり、すべての存在者は一者に憧れることで一者に引き寄せられます。この憧れを「観照」ともいいます。ここはアリストテレスの「不動の動者」と同じ(不動の動者は押すのではなく引っ張る)。

関連:アリストテレスの形而上学をわかりやすく解説【プラトンとの違いはこれ】

とはいえ重要なのはこのような外面的な体系ではなく、それを根っこの部分で支える体験だと井筒は言います。

人はこの過程を外面から眺めて、これをプロティノスの「流出」(Emanatio)論と呼び「発出」(Processus)説と名付ける。しかしながら、自ら親しく観照的生の何程かを実体験したことがなければ、恐らくかかる流出論的宇宙論の真の意義を立体的に理解することはできないであろう。(井筒俊彦『神秘哲学 ギリシアの部』)

プロティノス本人にもこのような自覚があったようで、『エネアデス』のなかでは自身の哲学について次のようにいっています。

これをしかしわれわれが語ったり、書いたりするのは、ただ(人を)かのものの方へと送りつけて、語ることから観ることへと目ざめさせるだけなのであって、それはちょうど何かを観ようと意う人のために道を指し示すようなものである。すなわち道や行程は教えられるけれども、実地を観ることは、すでに見ようと意った者の仕事なのである。(プロティノス『エネアデス』田中美知太郎訳)

否定神学って理論的な観点からだけ見ると消極的で物足りないものに映りますが(またこのパターンかよみたいな)、神秘体験を自ら生きている人にとってはむしろリアリティしかないポジティブな哲学なんですね。

 

プロティノスは密儀宗教とイオニア思想の収束地点

井筒によると、プロティノスの特徴は超感性的世界への上昇局面だけでなく現世への下降局面にも形而上学的な価値を認めるところにあるといいます。

俗世からの脱出はギリシア伝統の密儀宗教的な暗いトーンが、逆に天界からこの世界への帰還はイオニア哲学的な明るいトーンがあります。

こうしてプロティノスは、ギリシア伝統の密儀宗教の流れとイオニアの自然哲学の流れとをその身に集約した、ギリシア哲学史上の集大成のような存在となっているわけです。

この上からの視点(一者の見地)と下からの視点(人間の見地)のミックスというのが、非常に重要なポイントだと思われます。

下から上への方向性はわかりやすいですよね。これは現世否定の方向性です。すべてを捨てて神を目指せというような。

プロティノスいわく、この世は劇の舞台にすぎない。それが単なる劇であることを忘れた人間はもはや人間未満の存在であり、「人間の影」でしかない。現世とは滑稽で悲惨な唾棄すべき世界であると。

じゃあプロティノスがグノーシス的な現世否定の方向にいくかというと、そうでもないんですよね。

グノーシスは現世からの脱却を求め、この世界を創造したデミウルゴスを偽りの神だと見なしました。

しかしプロティノスは創造神を否定することはありません。一者の観点からみれば現世は完璧な善美の世界であるとして、現世を肯定するのです。現世をネガティブにのみ捉えるのは視点が限定されているからにすぎないと。

ここがプロティノスの特徴で、宗教的にきわめて重要な点だと思われます。

下からの視点しか持っていない限定された個人が現世を否定しても一面的でしかないように、上からの視点を持っていないものが現世を賛美したらそれは嘘か寝言にすぎないんですね。現世を肯定できる人間がいるとしても、それは上からの視点を持てるほどの悟りを開いた極少数の人間だけ。

安易な現世肯定と安易な現世否定のいずれをも批判している点に、プロティノスの深遠さが見られると思います。

 

このロジックは美についての議論にも当てはまります。

プロティノスは美を解する点にも特徴があります。宗教者が美をどう捉えるかってかなり様々ですが、プロティノスは美を肯定するタイプ(日本仏教の空海とか中国仏教の善導のような)。

しかし基本的には美を善の下に置きます。美は人を狂わせてしまうから。

しかしそれはあくまでも下からの観点から評価した場合なんですね。上から見れば美にはネガティブな面などない。

限定された人間にとって美はあまりに過激で毒になる。美を完全肯定するなら上からの視点でなくてはいけない。もし下からの視点しかもっていない人間が美を全肯定したら、それはやはり虚偽でしかないというわけです。

ちなみにプロティノスの主著『エネアデス』は中公クラシックスで入手できます。

抄訳ですが、重要なパートはだいたい入ってます。ポルピュリオスのプロティノス伝(60ページほどの長さ)も収録されています。

哲学の本

Posted by chaco