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カントの影響で存在と時間が結合 轟孝夫『ハイデガー「存在と時間」入門』

2024年7月14日

日本はなぜかハイデガー王国で、専門家による研究が盛んなだけでなく、一般向けの入門書や解説書も異様に充実しています。

そして2017年に新たに登場したこちらも良書。轟孝夫の『ハイデガー「存在と時間」入門』(講談社現代新書)です。

新書ながらも約430ページという特大のボリューム。しかし文章はわかりやすく、変な癖もなくて読みやすいです。ハイデガーを学んでいくなら2~3冊目に読むとよさそう。

ハイデガーを解説するうえで本書がとくに軸としているのは、次の4点がハイデガーに与えた影響。

・アリストテレス哲学
・キリスト教神学
・フッサール現象学
・カント哲学

最後のカントからの影響がすごくインパクトありました。ハイデガーは存在と時間を結びつける考え方をカントから得たというんですから(後述)。

なお本書の大まかな構成は以下のとおり。

・第1章…『存在と時間』という作品の成立史。この本は綿密に構成された隙のない哲学書ではなく、教授職を獲得するために急いで書き上げられたやっつけ仕事だった。途中で書き換え。そして後半の出版はキャンセル。

・第2章…存在を問うとはどういうことか。存在的と存在論的の違い(後述)。実存的と実存論的の違い。存在の意味(存在理解のための地平・舞台)が時間であるということについて。

・第3章…現存在(人間)の存在(あり方)の分析について。『存在と時間』の現存在分析はアリストテレス哲学を現象学的に記述しなおした部分が多い。

・第4章…本来性と非本来性について(後述)。キリスト教とアリストテレス倫理学の影響。カントの義務倫理学やベンサムの功利主義ではなく、アリストテレスの徳倫理学をハイデガーは継いでいる(これがアーレントやガダマーに影響を与えた)。

・第5章…『存在と時間』が未完に終わった理由。カントの影響(後述)。存在の問いに時間がかかわってくる。これが基礎存在論(現存在分析)とうまく融合できなかった。

 

存在と存在者はどう違う?

ハイデガー哲学の最重要概念のひとつに「存在論的差異」というのがあります。

存在と存在者は違うんだというのがその趣旨(存在者ばかりに気を取られて存在を見失うのはいかんでしょという方向に話は展開していく)。

じゃあ存在と存在者はどう違うのか?

考えてみればこれもわかったようなわからないような曖昧なところがあるんですが、本書はこの点について明快な解説をしています。

存在は存在者のあり方、存在の様相だというんですね。

本書で挙げられているのは鳥の例。鳥が空を飛んでいる。鳥が木に止まっている。このとき鳥は存在者。そしてそれぞれのあり方(飛んでいるとか止まっているとか)がその存在ということ。

この存在者と存在の区別は、ハイデガーの「存在の問い」のもっとも基本的な区別だが、ごく簡単に言えば、モノとそのモノが担っているあり方、すなわちモノとそのモノの存在様態の区別と言ってよいだろう。(轟孝夫『ハイデガー「存在と時間」入門』)

僕は存在論的差異をモノとコトの区別で理解していました。モノが存在者。そのモノがあるという事態、そのコトがそのモノの存在だというふうに(木村敏がこういうふうに書いてた気がする)。これ正確じゃなかったのかも。

ちなみに存在的と存在論的の区別についての解説もわかりやすいです。

とくになにも意識することなく、まわりの存在者との交渉に没頭しているありさまが存在的。それに対してまわりの存在者の存在(存在様態)に意識的に注意をむけてそれを主題化するありさまが存在論的といわれます。

実存的と実存論的もこれと同じパターン。

ハイデガーは現存在(人間)を特別扱いし、現存在の存在を特別に実存と呼びますから、それに応じて、存在的と存在論的の区別が、実存的と実存論的という用語に変換されているだけです。

 

本来性と非本来性はどう違う?

僕がはじめて『存在と時間』を読んだときにいちばん引っかかったのが現存在の本来性に関するパート。結局クリアには理解できなかった模様。

しかし本書の解説はきわめて明晰です。

本来性と非本来性は現存在の存在了解と結びついた概念だと著者は説明。

現存在の非本来的なあり方とは、ある存在者をその存在にとって本質的なものである他のさまざまな存在者との関係から切り離し、それだけを現前させる態度を意味する。現存在の本来的なあり方は、それとは逆に、存在者を周囲の存在者との関係から捉える態度である。(同書より)

そして、存在者を周囲の存在者とのかかわりのなかで捉える本来的な態度には、「存在者は自分の意のままにはできない」と認める思想が含まれているとのこと。

逆にいうと非本来的な態度で存在者に接している人間は、存在者を周囲とのかかわりから切り離して現前させ、それを自分の利己的な意のままに操り搾取しようとする思想に満ちていることになります。

これ後期のハイデガーっぽい話ですよね。本書の解説を読むと、『存在と時間』と後期思想(技術論など)とのあいだにあるリンクが可視化されてスッキリします。

ちなみに非本来性には現在という時間性が対応し、本来性には将来という時間性が対応します。

西洋哲学は古来より現在という時間性から存在を理解してきた。この非本来的な態度が今日の破壊的な文明の原因である。われわれはむしろ将来という時間性から存在を理解していこう。

…というふうな方向性を取るのがハイデガーの思想です。

 

カントからの影響で存在と時間を結びつけた

存在と時間を結びつけるのって独特ですよね。

存在について考察したり、時間について考察したりするのはありふれています。が、存在と時間を結びつけて考える人ってなかなかいないと思う。

例外として思いつくのは道元でしょうか(くわしい思想内容については知りませんが)。

ひょっとするとハイデガーは、彼のもとにたくさんいた日本人留学生から道元の話を聞き、それをヒントにして存在と時間を結びつける哲学を編み出したのではとも思っていました。

しかし本書によると、存在と時間を結びつける行き方はカントの影響によるものです。

そしてこれが『存在と時間』の出版一時停止と書き換え作業、さらには作品の未完の原因にもなったと著者はいっています。

一九二五年の終わり頃からカントの哲学と取り組む中で、新たに「存在一般の意味としての時間」という問題が浮上し、急にそれが『存在と時間』の構想に取り込まれることになった。そのため「存在一般の意味への問い」が、かつての、事実性の解釈学を継承した現存在の実存論的分析にはめ込まれた。
しかし両者はもともと出所の異なったモチーフで、右で見たように、内的には矛盾する関係にあるため、完全に接合されることはできず、『存在と時間』のうちで緊張関係を保ちながら併存することとなった。そして「存在の意味としての時間」という事象の意味がいよいよ明確になっていくにつれて、ハイデガーはこの事象を表現するためには現存在を起点とした語り方では実は不適切であることを、ますます意識するようになっていった。(同書より)

ハイデガーは初期から時間論を展開していたんですが、それはあくまでも人間を分析するために行っていたにすぎないといいます。

存在の意味(存在を理解するための舞台ないし観点)として時間を登場させる発想は、『存在と時間』を書いている途中でカントの影響で急に思いついたというんだから驚きです。

この話は初めて聞いたような気がする(忘れているだけかも)。かなり衝撃的ですね。

しかしこの「緊張関係を保ちながら併存する」さまざまな要素が『存在と時間』の面白さの秘訣な気がします。僕は後期ハイデガーが面白いと思えないんですが、それはたぶん、後期の作品からはこの緊張関係が失われてしまうからでしょう。

ということで今回は轟孝夫『ハイデガー「存在と時間」入門』を読みました。これだけわかりやすいと、同じ著者の『ハイデガーの超政治』も読んでみたくなります。

ハイデガー入門のおすすめ本は以下の記事も参考にしてみてください。

哲学の本

Posted by chaco