柄谷行人『憲法の無意識』なぜ憲法9条は日本に定着したのか
柄谷行人の『憲法の無意識』(岩波新書)を読みました。
憲法9条は外部から強制的に与えられた、だからこそそれは日本人の精神の深くに定着したのだ。
このような逆説的な事態を、フロイトの精神分析理論を援用して解説した論考です。
普通、憲法が国民の精神に定着するには、それが主体的な意思でもって提出されたものでなくてはならないと考えますよね。
だから日本の戦後憲法は上っ面の存在にすぎず、日本人の精神は憲法とは無関係の場所を浮遊している、みたいな議論になることが多いと思います。
しかし柄谷はそれを逆に考えるんですね。もし自らの意思で主体的に練り上げたものだったとしたら、それを変更したり抹消したりするのは容易であり、とくに第9条などはとっくに削除されていただろうと。
憲法九条は自発的な意志によってできたのではない。外部からの押しつけによるものです。しかしだからこそ、それはその後に、深く定着した。それは、もし人々の「意識」あるいは「自由意思」によるのであれば成立しなかったし、たとえ成立してもとうに廃棄されていたでしょう。(柄谷行人『憲法の無意識』)
憲法9条は偶然の産物でした。マッカーサーが重視したのはむしろ憲法1条であり、9条はそれの埋め合わせにすぎなかったのです。
日本を戦争で打ち負かし、戦後の統治を引き受けたマッカーサー。彼は日本をおとなしくさせておくために天皇制の維持を訴えます。もし天皇を排除したら日本人は容易に敗戦を認めず、ゲリラ部隊となって地獄の様相を呈してしまうだろうと恐れたのです。要するに日本人を統治するために天皇を担いだわけですね。
柄谷いわくこれはマッカーサーが征夷大将軍になったようなものとのこと。実際、日本の将軍はそのように天皇を政治利用してきました。
しかし大戦において日本の攻撃で被害を被った諸国はそれでは納得しません。天皇に戦争責任を問えという論調が圧倒的だったのです。
そこでマッカーサーが持ち出したのが9条です。日本から軍事力を完全に取り上げ、戦争遂行能力をゼロにしてしまう。ここまですれば天皇制を残しても周辺諸国は納得してくれるだろうという判断でした。
要するに憲法1条こそが本丸であって、9条はそれを通すための補完物にすぎなかったわけですね。
実際、冷戦の激化によって世界情勢が変化すると、マッカーサーは日本に再軍備を迫ります。9条とかいうオマケをくっつけとく必要なんてもうないわ、というわけです。
ところがこれに対して当の日本人が拒絶的な反応を示すのです。これ以降、作者(GHQ)の意図を超え、憲法9条が独自の作動をし始めます。
外部から与えられたからこそ、戦後憲法は意識的な働きかけでは容易に動かせない超越性を帯びたのだ。このような論理は1990年代の初頭から柄谷が言っていたそうですが、本書はそこをフロイト理論を使って掘り下げている点に特徴があります。
ちなみに憲法を直接取り上げているのは1章と2章で、3章はカントの平和論、4章は国際政治的な内容になっています。3章と4章は近年の他の著作でもよく出てくる話なので、とくに目新しさはありません。
古代ユダヤ人と戦後日本人
この本を読んで思い出したのが、加藤隆の『旧約聖書の誕生』(ちくま学芸文庫)。
ユダヤ人が初めて正典をもったのは、バビロン捕囚から解放されて後、ペルシア帝国の支配下にある時期でした。モーセ文書などはそれ以前にも存在していましたが、正典という形式をもってはいなかったのです。
ペルシア帝国の高官エズラはユダヤ人に対して、自前のルールを作れと命じます(同化政策とは対照的な帝国的支配術)。そこで大慌てで作られたのが律法と呼ばれる文章で、これが後の聖書のコアになったのです。
ここで加藤は、律法がその権威性を獲得できたのは、むしろ外部から命じられたからではないかと推測しているんですよね。
加藤はペルシア帝国の権威性のほうを強調するので、柄谷の論調とまったく同じことを言っているわけではないのですが、外部からの働きかけが超越的な正典を成立させたという逆説的な構造に、どこか戦後日本と通じるものを感じます。