東浩紀『新対話篇』哲学と芸術は社会の外部を確保できるか【書評】

東浩紀

東浩紀の『新対話篇』を読了。「今の日本で哲学や芸術になにができるのか」をテーマにした対談集です。対談の相手は総勢12人。

発売されたときから気になっていた本ですが、ようやく読みました。

正直、思っていたほどの威力は感じませんでした。対談というよりも、東浩紀がインタビュアーに徹している感があったのがその理由かなと思います。結局のところ東がしゃべりまくってるのが一番おもしろいんですよね。

加藤典洋との対談で東は「縦の関係が大事」とか「いかに世代間で受け継いでいくか」みたいなことを言っていますが、それが反映された構成とはいえそうです。年長者(梅原猛とか筒井康隆とか中沢新一とか加藤典洋とか)の発言を引き出そうとしている感じ。

國分功一郎との対談は出色のおもしろさだと感じました。「現代社会で哲学や芸術がやるべきことはなにか」という本書のテーマに、もっともわかりやすくダイレクトな形で答えている回だと思います。

デリダにならってコレクトネス(合法性)とジャスティス(正義)を区別し、前者に現前性、後者に時間の幅を設定。それをハイデガーの議論とつなげて、コレクトネスがジャスティスの頽落形態であるとする指摘とかおもしろい。

このコレクトネス(現前性)に支配された社会でいかに外部の空間を作るかという試みには、多くの人が共鳴すると思います。

ちなみにかつては大学がそのような場を提供していました。大学の先生というと、脱社会的な変人みたいなイメージありましたよね。まさに大学という時空間は社会の外部だったわけです。しかしそれもここ十数年で変質し、大学は合理的で計算可能な社会システムへと組み込まれます。

東浩紀の「ゲンロン」はそのかつての大学の場を埋めるものとして、プラトンやアリストテレスの学園をモデルに構築されているそうです。

ところで加藤典洋との対談では東浩紀と吉本隆明の類似性が指摘されているんですが、これは以前から僕も思っていました。

大衆文化的なものを扱うところとか、オタクとか引きこもりに近いパーソナリティや感性をもってるところとか、色々とふたりは似てると思う。

ただ東は吉本隆明の文章が苦手らしいです。これよくわかる。吉本ってむやみに難解なんですよね。おそらく東の理想は柄谷行人の文章だと思いますが、これもよくわかります。高度に思索的な内容を明晰でわかりやすい文章で書くスタイル。

それにしても東は家族とか次世代とかにすごくこだわる傾向が出てきてますよね。

個人的にはそれが苦手。なんかこう学校の道徳の授業でも始まったかのようなうんざり感を覚えてしまうんですよね。

基本的には外部の空気をもたらしてくれる東浩紀ですが、ここは息の詰まる感じがします。