最高にわかりやすい『カント「純粋理性批判」入門』
西洋哲学の巨人カント。その文章の難しさでも世界最凶クラスです。わかりやすい解説書はないものか?
僕が知る限りでもっともわかりやすいカント入門書は、黒崎政男の『カント「純粋理性批判」入門』(講談社選書メチエ)です。今回久しぶりに再読しました。
『純粋理性批判』のみならず、カント哲学そのものへの入門もここから始めるのがいいんじゃないかと思います。
著者の黒崎政男はカント研究者にして人工知能や電子メディア論の専門家でもあるという面白い人。弘文堂の『カント事典』でも執筆を担当していますね。
文章は堅すぎず柔らかすぎずでちょうどいい感じです。
理性と知性と悟性は何が違う?
西洋哲学ではよく「理性」とか「知性」とかいう単語が登場します。理性と知性の違いがわかりますか?僕にはよくわかりませんでした。
しかもカントの場合、さらに「悟性」とか言い出すからよけいによくわからない。
黒崎政男の『カント「純粋理性批判」』では、ここがわかりやすく整理されています。
まず知性とは何か?知性とは、対象を直感的に、全体のまとまりとして、一瞬で把握する能力のことをいうそうです。
では理性とは?理性は理詰めで推論していく能力をいいます。AがBだからCになって、CがDだからEになって…みたいに。この時点でちょっと意外な感じありますね。
そして注目すべきことに西洋哲学の伝統では知性が理性よりも上位に置かれてきました。対象を一瞬でつかまえる知性が、理詰めの理性よりも偉かったんですね。
しかしこれがカントによって変更されます。若い頃のカントは伝統に従っていたのですが、『純粋理性批判』では理性を知性の上位に置くようになったのです。
王座にあった知性は陥落し、理性に従属するようになった。そしてこの落ちぶれた知性のことを、悟性と呼びます。
理性と知性と悟性、ちゃんと使い分けることに意味があったんですね。
カントのピークは『純粋理性批判』の第一版
本書の独特な見方として面白いのが、カントの思想的ピークを『純粋理性批判』の第一版にあるとするところ。
実は『純粋理性批判』には第一版と第二版があるんです。内容も微妙に、しかし決定的に異なっている。どこが違うのか?
カントは経験論(ロックなど)と合理論(ライプニッツなど)の総合を試みたのでした。その結果が感性と悟性の共同作業で真なる認識が発生するというあの独自の思想です。
しかしカントは次に、この感性と悟性がいかに関係しうるのかに悩み始めます。まったく別種の能力なのにどうして協調できるんだろう、と。
そこでもちだされるのが構想力(想像力のこと)です。感性と悟性の根っこには構想力がある。これを地盤としているから感性と悟性は一致できるんだ。第一版でのカントはこのように考えます。
この感性と悟性と構想力の三元論(下手すると構想力の一元論に収束しかねない)こそがカントの持ち味だったのですが、これが次第に失われていきます。
『純粋理性批判』の第二版では構想力が背景に退き、悟性が前面に押し出されます。感性と悟性の協調は、あくまでも悟性が主導となって行われると説かれるようになっていくのです。
この傾向はさらに加速していきます。最晩年の『オプス・ポストゥムム』では、あたかも感性抜きで、悟性や理性だけで真なる認識に到達できるような書き方がなされているのです。
年をとって本性が現れたのか、デカルトやライプニッツなどの大陸合理論のほうに舞い戻ってしまった感すらあるわけですね。著者の黒崎はここにカントの衰えを見て取ります。
ちなみに第一版の構想力重視の哲学を高く評価する哲学者には、ヘーゲルやハイデガーなどがいますね。ハイデガーの『カントと形而上学の問題』ここに焦点を当てた名著として知られます。
また坂部恵という大物研究者は『視霊者の夢』という前期の作品をカントのピークとしている模様。彼の『理性の不安』はいつか読んでみたいところです。