デカルトの心身問題の解決法【スピノザとライプニッツの場合】
哲学には心身問題とよばれる問題があります。心と身体がいかに影響を及ぼし合っているかを考えるのが、その内容。
これはデカルトの思想から意図せずに発生した問題で、その後の哲学者を悩ませ続けました。
なぜ心身問題は発生したのか?そしてスピノザとライプニッツはどのような解決法を考えだしたのか?
以下、それを見ていきます。
関連:ライプニッツの哲学をわかりやすく解説【スピノザとの対比で理解】
デカルトによる心身問題の発生
近代科学の進展によって、キリスト教的世界観である天国と地上の二元論が崩れ始めます。
この流れに対抗して、デカルトは近代科学からキリスト教を守ろうとしました。その結果が精神と物質の二元論です。
精神と物質はそれぞれ異なる実体であり、相互に影響を与え得ない。それぞれの領域には、それぞれの法則がある。これがデカルトの二元論ですね。
これは実は、精神(キリスト教)を物質(近代科学)から守ろうする試みでもあるのです。精神と物質をまったく異なるものとして切り離せば、精神の世界が物質の論理によって脅かされることもなくなりますから。
しかしここで問題が発生します。
精神と物質が相互に無干渉なら、人間の心と身体はどうやって協働しているのか?人間の心は精神で、身体は物質ですよね。ということは、デカルトの考えにしたがうと、心と身体は協調できないのではないか?
これを心身問題といいます。
デカルト自身もこの予期せぬ問題に対応したのですが、それは批判されまくりました。
デカルトは身体のなかに特殊な器官を想定し、それが精神と身体をつなぐのだと言うのですが、これはどう考えてもおかしいですよね。
だって、その器官に精神はどうやって影響を与えるのかという問題が発生しますから。いわば、問題発生の場所がズレたにすぎないのです。
デカルトの同時代人に、この心身問題に興味深い解決を与えた哲学者がいました。スピノザとライプニッツです。
スピノザによる心身問題の解決法
スピノザの思想は汎神論です。唯一の実体である神が存在し、その他はすべて神の様態にすぎない。精神も身体も、この神の様態にすぎません。
ここでは、心身問題が解消されてしまっています。というか、そういう問題が生じえない。
デカルトと対比するとわかりやすいのですが、デカルトは実体を3つ認めたのでした。神と精神と物質ですね。
実体は相互に作用できませんから、心と身体はどうやって相互作用しているのかという問題が生じてくる。これが心身問題です。
しかしスピノザの場合、実体は一つなのです。神だけが実体。そして精神も物質も神の様態にすぎない。
いわば精神と身体はコインの裏表なのであり、ここでは精神と身体がどうやって相互作用できるかといった問題自体が発生しません。
精神は身体である。身体は精神である。これをスピノザの平行論といいます。
ライプニッツによる心身問題の解決法
ライプニッツの場合、スピノザと異なり無数の実体を想定します。この実体をモナドと呼びます。
デカルトは実体を3つ、スピノザはひとつ認めたのですが、ライプニッツは無数の実体を認める。これはスピノザの汎神論に対するアンチテーゼです。
モナドは実体ですから、やはり相互に影響を与ええません。ライプニッツはこれを「モナドには窓がない」と表現します。
では、精神モナドと身体モナドはどうやって協働しているのでしょうか?おわかりの通り、ここではデカルトの心身問題が復活しています。
ライプニッツの答えは、神の予定調和です。
モナドには、未来に生じるすべての出来事が書き込まれているというんですね。過去から未来にわたる、すべての事象が情報としてモナドに埋め込まれている。
その結果、すべてのモナドは勝手に動き回るが、全体としてはハーモニーが生まれるというわけです。
精神と身体がバラバラに動くことなく、強調して作動するのは、精神と身体が相互作用しているからではありません。そうではなく、精神モナドと身体モナドのうちに未来の出来事がすべて書き込まれており、結果としてハーモニーが生まれるんだと。
外部から見るとあたかも精神と身体が相互作用しているように見えるが実際にはそうではなく、すべてが上手くいくように神によって設計されている。
これがライプニッツの予定調和論による心身問題の解決法です。
この問題をわかりやすく解説してある本としては、マシュー・ステュアートの『宮廷人と異端者』があります。
ライプニッツの評伝なのですが、スピノザとの対比で物語られるところが特徴ですね。
デカルトが引き起こした心身問題へのふたりのリアクションも、この本に書かれています。