ライプニッツの哲学をわかりやすく解説【スピノザとの対比で理解】
ライプニッツといえば最後の万能人と呼ばれ、大天才として知られています。
ライプニッツの業績でいちばん僕たちに馴染み深いのは、数学の微分積分ですかね。あれを発明したのはライプニッツです。
厳密にはニュートンのほうが少し早く思いついていたのですが、僕たちが高校で習う微積分はライプニッツのアイデアです。
しかしそんな大天才にしては、ライプニッツの解説書とか伝記ってあまりないですよね。貴重な例外がこの本。
マシュー・ステュアートの『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』です。
内容を一言でいえば、ライプニッツの評伝です。
本書の特徴は、スピノザと対比させる形でライプニッツの生涯と思想を語る点。
スピノザはライプニッツの同時代人で、哲学者としてはこの人のほうが有名かもしれません。
人間としての生き様はまったく違い、ライプニッツはなんでもこなし政治にも積極的にかかわるスーパーエリート、スピノザは家に引きこもりレンズ磨きで生計を立てる異端の世捨て人でした。
スピノザはライプニッツ最大の敵
なぜライプニッツの生涯と思想を解説するために、スピノザと比較するのでしょうか?
それは、スピノザがライプニッツにとって最大のターゲットだからです。
著者のマシュー・ステュアートによると、ライプニッツの哲学は批評的な性格が強いらしい。自分のポジティブな確信をバーンと打ち出すタイプではなく、他者の思想を批判、吟味し、総合していく天才なんですね。
したがってライプニッツを理解するには、彼がなにを批判しようとしているのかを見るのがいいのです(ちなみにこれはヘーゲルが指摘したことでもある)。
ライプニッツ最大のターゲットがスピノザですから、スピノザをどのように否定していくかを観察することで、ライプニッツの思想が見えてくるわけです。
ライプニッツとスピノザ、どのように対立する?
それでは、ライプニッツとスピノザはどのように対立するのでしょうか?
一言でいうと、近代をどう捉えるかで対立します。
スピノザは近代を肯定し、ライプニッツは近代を批判する。それが思想にも現れると著者は主張するのです。
到来しつつある近代という時代に、ふたりの思想家は別々の対応を見せます。
これが著者の面白いところで、思想を社会や政治と関連させて理解するんですね。スピノザの思想が近代の肯定になっているというのは、今まで考えたことがなかった気がする。
ただし著者の主張はだいぶ行き過ぎで、たとえばスピノザを近代政治思想の枠組みに閉じ込めるのは無理があると思います。どう考えてもスピノザはもっと異様な人間で、現代の常識では捉えきれない宗教的次元を秘めているはずですからね。
ただ、著者の言うことに一理あることも確かです。政治思想の方面から眺めることで見えてくる部分はありますよね。
スピノザの思想
ライプニッツの哲学に行く前に、そのターゲットとなるスピノザの哲学をざっくりと解説します。
スピノザ哲学のコア、それは神=自然です。
神は自然の全体である。自然のすべては神である。そして神=自然から超越するものはなにもない。汎神論と呼ばれる考え方ですが、これがスピノザ哲学の核心です。
神だけが実体であり、他の存在はすべて、神のパーツにすぎません。デカルトは神と精神と物質を実体とみなしましたが、スピノザにとっては精神も物質も、神が有する属性の一つにすぎない。
そして神=自然の内部ではすべてがロジカルに関連しあい、そこには偶然もなければ、自由意志もありません。すべては論理的に、必然として生起する。
スピノザのこの思想は、従来のユダヤ・キリスト教世界観と対比させるとその特徴がよくわかります。
ユダヤ・キリスト教の世界観では、世界から超越する場所に人格神がいて、その神様が世界を創造しますよね。そしてそのなかで人間が特権的な地位を占め、個人はそれぞれ不滅の個性をもつとされます。
スピノザの思想はこれと真っ向から対立するわけです。だから彼はユダヤ教から破門され、異端の人となったのですね。スピノザのあだ名は「無神論者」です。
そして注目すべきことに、著者はスピノザのこの思想を近代の肯定とみなします。
近代科学の登場により、近代ではユダヤ・キリスト教的な世界観が崩れ、どんどん世俗的な世界観が力をつけてきます。天国の存在感が薄れるわけです。
スピノザの思想は天国が消え去った世俗世界を聖化するものだ、と著者は解釈します。神=自然は、近代の世界観を肯定する形式として機能するということです。
ライプニッツの思想
ようやくライプニッツの出番です。彼はスピノザの批判を通じて、スピノザ以上に独創的な、異様な哲学を打ち出します。
ライプニッツは、従来のユダヤ・キリスト教的な世界観を守りたいわけです。その意味では反動的な面のある哲学者ですね。
しかし普通の神学者がするようにスピノザをただ無視して終わりにするのではなく、ライプニッツはスピノザの思想を取り込み、従来の世界観と調和させようと試みます。
その結果生じたのが、神が可能世界から最善の世界を選択する、予定調和の哲学です。
超越的な神が世界を創造するという図式は、ユダヤ・キリスト教的なものです。しかしライプニッツの思想においては、創造されうる世界が無数に存在します。
これら可能世界から神は最善の一つを選び出し、それを創造するのです。
そしてそのように創造された世界の内部においては、スピノザ的な因果律が支配します。そこには自由も偶然もなく、すべてが必然的に、ロジカルに生起する。
このようにしてライプニッツの哲学は、スピノザの世界観を取り込んでいるのです。
ただスピノザとまったく異なるのは、実体を無数に認める点です。
スピノザは神だけを実体とみなし、その他すべてを神のパーツと考えたのでした。しかしライプニッツは、実体を複数、それどころか無数に認めます。
この実体をモナドといいます。
このモナドが、あらゆる存在者を構成します。精神も身体も、モナドから成り立ちます。
モナドは実体ですから、お互いに影響を与え合うことはできません。他から影響を受けて存在のありようが変わってしまうのなら、それは実体とは呼べないですから。
こうしてモナドは他者と関与することなく、ひたすら自律的にふるまいます。これをライプニッツは、「モナドには窓がない」と表現します。
このようなライプニッツの思想はモナドロジーと呼ばれます。
しかしそれならば、なぜ世界に調和が成り立つのでしょうか?たとえば自分の心と身体がバラバラに動くことなく、ほとんどの場合調和しているのはどのようなメカニズムによるのか?なぜ心モナドと身体モナドはハーモニーを生み出せるのか?
ライプニッツによると、ここには神の予定調和が働いています。
どういうことかというと、モナドの内部には、過去から未来にいたるすべての出来事が、あらかじめ書き込まれているというのです。
そして神は、すべてのモナドが協調して動くようにあらかじめ設計しておいた。したがって、モナドが自律的にふるまっても、結果としてハーモニーが生じるというわけです。
バートランド・ラッセルにならい、目覚まし時計を例にとって考えてみましょう。
2つの目覚まし時計がある。あなたはアラームを、同時刻に鳴るようにセットします。指定した時刻がおとずれると、2つの目覚まし時計は同時に鳴り始めます。
このとき、2つの目覚まし時計は次のように考えているかもしれません。「僕たちはお互いの相互作用によって、まったく同じ時刻に音を出すことに成功している」と。
しかしこれは事実とは違いますね。実際には、目覚まし時計が同時刻に鳴るように、神(この場合は時刻をセットした人間)があらかじめセットしておいたのです。
ライプニッツによると、宇宙の出来事はすべてこれと同様のメカニズムで動いているのです。デカルトの心身問題も、ライプニッツはこの線で解消しようとします。
関連:デカルトの心身問題の解決法【スピノザとライプニッツの場合】
ライプニッツは近代を超えるか?
『宮廷人と異端者』の著者は、ライプニッツに対してずいぶん否定的な見方をしています。ライプニッツは時代の流れに負けた敗北者なのだ的な。
しかし本当にそうだろうか?ライプニッツが近代を批判したことはたしかですが、近代の批判が前近代を志向するものとは限らないですよね。むしろ近代の先を見据えていたのかもしれない。
たとえば柄谷行人は『帝国の構造』のなかで、ライプニッツのモナド論に政治思想を読み取り、そこに彼の先見性を見出しています。
近代国民国家を前提として考えたホッブスやスピノザやヘーゲルとは異なり、ライプニッツはその枠組を超える場所で思索していた。それはカントの世界共和国を先取りする思想であり、来たるべき時代のヒントが秘められている、というふうに。
僕としてはこっちの方向でライプニッツを読んでみたいと思いますね。
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