ヘーゲルの宗教哲学をざっくり解説『宗教哲学講義』
ヘーゲル哲学のコアには実は宗教論があって、それが彼の論理学にも歴史哲学にも社会哲学にも影響を与えています。
ではヘーゲルにとって宗教とはなんだったのでしょうか?
一言でいえば「神が自分自身について知る方法のひとつ」です。
といってもこれだけじゃ意味不明。以下、ざっくり解説しようと思います。
ヘーゲルの宗教論が展開された本は『宗教哲学講義』です。以前から読んでみたいとは思っていましたが、講談社学術文庫に収録されたのをきっかけについに読みました。
ヘーゲル宗教哲学の大きな特徴は以下の3点にあるといえるでしょう。
・スピノザに近い汎神論(世界は神)
・進歩主義(神は経験を積みレベルアップしていく)
・思考の優位(宗教と哲学の内容は同じ)
以下、順番に見ていきましょう。
特徴その1 スピノザに近い汎神論(世界は神)
ヘーゲル理解に絶対に欠かせないのが汎神論の知識です。
汎神論とは何か?
スピノザ哲学がもっとも有名ですが、世界そのものを神と見る立場のことをいいます。
この世界とは別の天上界みたいなところに神様がいるんじゃなくて、この世界が神。宇宙も星も生物も神の一部としてある。人間の感情や思考も神の一部。汎神論はこういう見方をします。
ヘーゲルはこの神のことを「精神」とも呼びます。
『精神現象学』の「精神」もこの神のことです。神がいろいろな形で現象してレベルアップしていくさまを考察するのがあの本の内容。精神という言葉で人間の思考や内面活動をイメージすると話についていけなくなるので注意が必要。
とはいえ、スピノザの神とヘーゲルの精神が同じかというとそうでもなくて、ヘーゲルの神は主体として動きまくり、経験をつんでレベルアップしていきます。
特徴その2 進歩主義(神は経験を積みレベルアップしていく)
スピノザとの大きな違いはこれです。
スピノザの神は静的な実体。じっとしていて動きません。
一方ヘーゲルの神は実体にして主体でもあって、歴史を通じて己を展開していきます。あれこれの経験を積んでレベルアップしていく感じ。その目標は自分を知ることです。
始まりの完璧な状態にじっとしていたら自分のことを知れない。あえてそこから分裂して、あれこれの存在者となり(世界創造)、そこからもう一度己へと立ち返り、真に自分自身を知るということ。
ヘーゲルがいろいろな場面で応用する弁証法(正→反→合)の大本がここにあります。
始まりの完璧な状態が正。そこから分離し創造された世界が反。そして世界の歴史を通じて己を発見していき最終的に自分自身へと立ち返るのが合です。
神(精神)は歴史をくぐり抜けるなかであれこれを経験しレベルアップします。宇宙となり星となり大地となり生命となり動物となりそして人間となる。神とは別の場所にこれらの自然界があるのではなくて、いわば神自身の身体の一部が変形して自然界をやっているイメージです。
神が自分自身を映し出すための最高の鏡が人間(もちろん人間も神の一部ですが)。
そしてそのなかでも人間の行う3つの営み、すなわち芸術・宗教・哲学が最強の舞台になります。この3つのなかにも序列があって芸術→宗教→哲学とレベルが上がってくとヘーゲルは考えます。
冒頭で述べた「宗教は神が自分自身について知る方法のひとつ」とは以上の事態を指します。
特徴その3 思考の優位(宗教と哲学の内容は同じ)
芸術よりも宗教が、宗教よりも哲学が上としているところからもわかるとおり、ヘーゲルは思考を重視します。
人間が神を知る場所(=神が人間において自分を知る場所)は次の4ステップでレベルアップしていきます。
直接知→感情→表象→思考
「直接知」は神と人間が一体となっている状態のこと。未開民族のアニミズムとかそういうのをイメージするとわかりやすいと思います。
ルソー的なロマン主義ならこの直接知を最上位に置き、それ以外の形態(とくに頭であれこれ考える立場)をそこからの堕落形態とみなすところですが、ヘーゲルは意図的にルソーの逆を行きます。
次に「感情」がきます。これはわかりやすいですよね。宗教感情のうちに神と出会うということ。
シュライエルマッハーの感情神学が有名です。ヘーゲルが宗教論で感情の話をするときはシュライエルマッハーが念頭にあります。
悪だって感情のうちにあるのだから、感情で宗教の正しさを証明することはできないとヘーゲルは批判します。
次は「表象」。
これが一番わかりにくいのですが、要するにシンボルやイメージのことです。例えば旧約聖書の創世記に出てくる「知恵の樹」とか「リンゴ」とか「ヘビ」とか。
本当にリンゴやヘビがああいう役割を果たしたと考えている人はいないですよね。あれは物語であって、リンゴやヘビは一種の象徴として機能しているだけ。このようなシンボルを駆使した神理解を表象の段階と呼びます。
ヘーゲルいわく宗教は表象を駆使する分野。
この表象を思考によって概念に翻訳するのが哲学です。言いかえれば哲学と宗教の内容は同じなんですね。
むしろ哲学の内容とその要求・関心は宗教とまったく共通だと言うべきである。宗教および哲学の対象は永遠なる真理すなわち神であって、神と神についての説明をおいてほかにない。(ヘーゲル『宗教哲学講義』山崎純訳)
実際、哲学はそれ自身が宗教と同様、礼拝(祭祀)である。(同書より)
哲学は宗教が表象のレベルで扱っていたものを、普遍的な概念へと翻訳します。
人間は思考という場でもっとも確かに神を知り、こうして神と人間が一体であったことを長い歴史の果てに再確認します。
これは神が神を知ることでもあります。人間も人間の思考も神の一部ですから。その人間が神を知るというのは、神が自分自身のことをはっきり思い出したという事態なわけです。こうして神の冒険物語は人間において終着点にたどり着きます。
ただヘーゲルの思想に真実味を感じる人でもここは立場がわかれると思います。
本当に人間が最後なのでしょうか?むしろもっと先があるのでは?
近代ヨーロッパの理性的人間を特権化し、そこで歴史を終わらせるのがヘーゲルの得意技。歴史哲学も宗教哲学も哲学史もこの線で進みます。
なお以上のような話を聞いていれば薄々気づくとは思いますが、ヘーゲルのいう「理性」は普通の思考とは違います。
ふつうの知性的な立場をヘーゲルは「固定的な知」と呼びます。
ヘーゲルが「悟性(知性)」といったらそれは嘲笑的なニュアンスが含まれています。世界から切り離された上段に居座って物事をスパスパ区分けしそれで世界を理解した気になっている浅薄な頭脳とかそういうニュアンス。
ヘーゲルのいう理性はもっと神と人間、世界と人間が一体となった境地で作動する思考のことなんですね。
単なる感性的な立場を後にするだけでなく、それの貧しい否定形でしかない啓蒙主義をも乗り越えようとするわけです。ここにも正(感性)→反(啓蒙主義の知性)→合(ヘーゲル的理性)の構造が見られますね。
この「理性」のニュアンスも『精神現象学』などを読むうえでつまづきがちなポイントなので注意が必要です。
『宗教哲学講義』の後半は具体的な宗教を考察しています。仏教、ヒンドゥー教、ユダヤ教、キリスト教などなど。いずれの宗教も神が神を知る営みとして世界に具現化したもの。
ただその効果性から序列があって、当然ながらヘーゲルはアジアの宗教を下位に置き、キリスト教を完璧な宗教として最上位に置きます。
キリスト教の三位一体説こそが上述したヘーゲル宗教哲学の奥義を具現化していると考えるんですね。神→子(キリスト)→聖霊が正→反→合に相応します。
この後半パートは比較宗教学の元祖ともいわれる研究ですが、研究者でもなければあんまり読む価値はない気がします。『歴史哲学講義』と同じで偏った歴史観が押し寄せてくるので。具体的な考察をしたいのなら最近の宗教学とかに当たったほうがいいと思います。
入門には『哲学史講義』のほうがおすすめ
この『宗教哲学講義』、『歴史哲学講義』(岩波文庫)や『哲学史講義』(河出文庫)に比べると難易度は高め。
ヘーゲルは著作に比べて講義録が格段に読みやすいのですが、本書に関しては初心者向けとはいいがたいです。
最初に読むなら『哲学史講義』がいいと思います。古代ギリシアからドイツ観念論までヘーゲル流に整理してくれる講義録。その過程で読者は弁証法的な思考法にもなじむことができます。
ヘーゲルの解説書については以下の記事を参照のこと。とくに『ヘーゲル辞典』と金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』がおすすめです。