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シェイクスピアの『ハムレット』はどう読まれてきたか【解釈の歴史】

シェイクスピアの『ハムレット』ほど、その作品の意味を問い続けられてきた作品はありません。

優柔不断な王子、悩める知識人、近代的自我の象徴などなど、私たちが思い浮かべるハムレット像は、実はシェイクスピアのテクストそのものというより、後世の読解の積み重ねによって形づくられてきたものです。

この記事では、『ハムレット』がどのように読まれてきたのかを、代表的な解釈をたどりながら整理していきます。

解釈の歴史を振り返ることで、『ハムレット』がいかに底知れぬ作品なのかも見えてくるでしょう。

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ハムレットはどういう作品か

まずは作品をざっと確認しておきましょう。

『ハムレット』は、シェイクスピアが17世紀初頭に書いた悲劇。デンマーク王家を舞台にした復讐劇です。

父王を亡くした王子ハムレットが、父の亡霊から「自分は弟クローディアスに殺された」という告白を聞かされ、その復讐を命じられるところから物語は始まります。

しかし、この作品は単純な復讐の物語としては進みません。ハムレットはすぐに行動に移ることができず、思索と逡巡を重ねることになります。

ハムレットは、行動よりも言葉と思考に重心を置いた人物として描かれています。彼は世界の腐敗や人間の偽善に敏感であり、王宮という権力と虚偽に満ちた空間に強い嫌悪感を抱いています。

その一方で、復讐という行為そのものの正当性や意味を問い続け、自らの行動を絶えず疑います。「生きるべきか、死ぬべきか」という独白に象徴されるように、この作品では外的な敵との闘争よりも、内面の葛藤が前面に押し出されています。

 

また、『ハムレット』は言葉の多義性と演劇性が強く意識された作品でもあります。

ハムレットは狂気を装い、言葉遊びや皮肉を多用しますが、その発言が本心なのか演技なのかは容易に判別できません。

さらに、劇中劇(劇の中で劇が演じられる)という仕掛けによって「演じること」「見ること」「真実を暴くこと」が主題化され、現実と虚構の境界が揺さぶられます。この構造は、登場人物だけでなく観客自身にも解釈を迫るものです。

 

『ハムレット』は、復讐劇という枠組みを持ちながら、人間の内面、倫理、言語、演劇の本質にまで踏み込んだ作品です。

そのため、ハムレットという人物は優柔不断な知識人とも、道徳的に誠実な思想家とも、時代に先んじた近代的主体とも読まれてきました。

作品そのものが一義的な意味に収まらない構造を持っているからこそ、『ハムレット』は時代ごとに異なる読みを生み出し続けてきたのです。

では次に、その解釈史を見ていきましょう。

 

① 18世紀:近代的「内面」の発見

18世紀になると、『ハムレット』は道徳的・常識的な観点から読まれるようになり、ここで初めて「近代的な内面をもつ人物」としてのハムレット像がはっきりと形を取ります。

その代表的な批評家が、イギリス啓蒙期を代表する知識人サミュエル・ジョンソンです。

ジョンソンは、シェイクスピアを高く評価しつつも、その作品を神秘化したり形而上学的に読みすぎたりすることには慎重でした。彼の立場はあくまで道徳批評であり、人間の常識や経験に照らして登場人物を理解しようとします。

その観点から見ると、ハムレットは英雄的存在というよりも、きわめて人間的な欠点をもつ人物として捉えられます。

ジョンソンにとって、ハムレットの最大の特徴は「考えすぎること」にあります。父の復讐という明確な課題を与えられながらも、彼は行動に移る前に思索を重ね、疑い、ためらい続けます。この行動の遅れは、外的な障害や状況の複雑さによるものではなく、ハムレット自身の性格的な弱さ、すなわち決断力の欠如に由来すると解釈されます。

ジョンソンは、ハムレットの内省が必ずしも高貴な思索とは限らず、むしろ実践を妨げる欠点として機能している点を強調しました。

ここで重要なのは、この読みがハムレットを「行為の人」ではなく「内省の人」として前景化したことです。

復讐という外的な物語よりも、主人公の心の動きや思考の過程が作品理解の中心に据えられるようになりました。この時代の読解を通じて、ハムレットは単なる悲劇の主人公ではなく、自己を省み、考えすぎるがゆえに行動できない近代的主体の原型として位置づけられることになります。

こうして18世紀の道徳批評は、後のロマン主義的解釈や心理学的読解への道を開きました。行為よりも内面が重要視される主人公像は、この時点で初めて確立されたのであり、ハムレット解釈の歴史における大きな転換点となったのです。

 

② 19世紀:ロマン主義的ハムレット像

19世紀に入ると、ロマン主義の潮流の中で『ハムレット』は大きく読み替えられます。

この時代を代表する解釈を示したのが、ゲーテによる『ヴィルヘルム・マイスター』です。ここでハムレットは、道徳的欠陥をもつ人物というよりも、きわめて繊細で高貴な精神の持ち主として描かれるようになります。

ゲーテの立場は、ロマン主義的な心理解釈にあります。彼はハムレットを、行動できない弱い人間として非難するのではなく、むしろその精神の繊細さゆえに行動できない人物として理解しました。ハムレットの内面は豊かで感受性に満ち、思索や想像力に優れていますが、その分、現実の暴力的で粗野な行為と深刻な緊張関係に置かれています。

ゲーテによれば、ハムレットが復讐を果たせない理由は、決断力の欠如ではありません。問題は、彼に課せられた使命そのものが、彼の精神の器に対してあまりにも過酷である点にあります。詩人のように繊細な魂をもつ人物に、血にまみれた復讐という行為を強いること自体が悲劇なのです。

ここでハムレットは、「大きすぎる課題を背負わされた詩人」として位置づけられます。

この解釈においては、思索が行為を圧倒します。ハムレットは考えすぎるのではなく、考えることこそが本質であり、その豊かな内面が外的行為を阻んでしまうのです。内面の崇高さと現実世界の粗暴さとの不釣り合いが、彼の悲劇の核心だとされました。

ゲーテによるこのロマン主義的ハムレット像は、その後の解釈史に決定的な影響を与えました。「悩める知識人」「行動できないインテリ」というイメージは、ここで初めて魅力的な精神的肖像として定着します。

この像は19世紀以降の文学批評や演劇解釈、さらには現代の一般的なハムレット理解にまで受け継がれ、今日に至るまで強い生命力を保ち続けているのです。

 

③ 20世紀初頭:精神分析的読解

20世紀初頭になると、『ハムレット』は精神分析という新しい知の枠組みの中で読み直されるようになります。

その代表的な解釈を提示したのが、精神分析学の創始者であるジークムント・フロイトです。フロイトは『ハムレット』そのものを体系的に論じたわけではありませんが、「ドストエフスキーと父殺し」などの論考の中で、この作品に繰り返し言及し、きわめて影響力の大きい解釈を示しました。

フロイトの立場は、ロマン主義的な心理解釈をさらに一歩進め、無意識の次元にまで踏み込むものです。彼によれば、ハムレットの行動の遅れは、性格や使命の過酷さといった表面的な理由では説明できません。その根底には、ハムレット自身も自覚していない無意識的欲望が潜んでいるとされます。

フロイトの核心的な主張は、ハムレットが父を殺したいという抑圧された欲望を無意識のうちに抱いている、という点にあります。これは母への性的欲望と結びついた、いわゆるエディプス的欲望です。クローディアスは父を殺し、母を手に入れた存在であり、ハムレットにとっては忌まわしい犯罪者であると同時に、自分の欲望を現実に実行してしまった「分身」のような存在でもあります。

この構図によって、有名なテーゼが導き出されます。すなわち、ハムレットがクローディアスを殺せないのは、彼を嫌悪しながらも無意識のレベルで同一化してしまっているからだ、というものです。クローディアスを罰することは、同時に自分自身の抑圧された欲望を裁くことになり、その心理的葛藤が行動を麻痺させていると解釈されます。

この精神分析的読解は、後の研究から見ると、テクストを単一の心理モデルに還元しすぎているとして多くの批判も受けています。

しかしその一方で、この解釈がもたらした影響は決定的でした。『ハムレット』を道徳や性格、思想の問題として読むのではなく、「無意識のドラマ」として理解する視点を定着させたからです。

フロイト以降、ハムレットは舞台上で語られる言葉以上に、語られない欲望や抑圧の物語として読まれるようになり、解釈の地平は大きく拡張されることになりました。

関連:フロイト心理学の全体像を解説【夢判断と精神分析】

 

④ 20世紀中盤:文学批評の転換点

20世紀中盤になると、『ハムレット』に対する評価は大きな転換点を迎えます。

その転換を象徴するのが、詩人であり批評家でもあったT.S.エリオットの論文「ハムレットとその問題」です。エリオットは、それまで積み重ねられてきた心理的・精神的に崇高なハムレット像に、正面から異議を唱えました。

エリオットの立場は、モダニズム批評に基づくものです。彼は作品を作者の精神や登場人物の内面の深さで評価するのではなく、あくまで文学作品としての構造や形式の完成度によって判断しました。

その視点から見ると、『ハムレット』は必ずしもシェイクスピアの最高傑作ではなく、むしろ「芸術的に失敗した作品」だと断じられます。

エリオットが問題にしたのは、ハムレットの感情と、それを表現する劇的形式との不釣り合いでした。

彼が提示した重要な概念が、「客観的対応物」です。これは、特定の感情を観客に伝えるためには、それに対応する出来事や状況、イメージの連鎖が作品内に客観的に用意されていなければならない、という考え方です。

しかし『ハムレット』では、主人公の憂鬱や嫌悪、激しい内的葛藤が、十分に客観化された形で提示されていないとエリオットは見ました。

つまり、ハムレットの感情はあまりにも大きく、複雑で、過剰であり、それを支える劇的構造が追いついていないというのです。その結果、観客はハムレットの感情に巻き込まれるものの、それがなぜ生じているのかを作品の内部だけで完全には理解できません。この不整合こそが、『ハムレット』を芸術作品として不完全なものにしているとエリオットは考えました。

この批評の重要性は計り知れません。エリオットは、ハムレットを「崇高な精神」や「深遠な内面」の象徴として神話化する読みを、文学批評の立場から引きずり下ろしたのです。

『ハムレット』は偉大な精神の表現だから偉大なのではなく、形式的に成功しているかどうかが問題だという視点は、その後の新批評や構造重視の文学研究に強い影響を与えました。

 

ちなみに、個人的にはエリオットの批評が一番しっくりきます。

エリオットを読んでそれに納得したというのではなく、そもそもハムレットを読んだ時点で同じような感想をもちました。同じような人はけっこう多いのではないでしょうか?

悲劇ジャンルなら明らかに『マクベス』などのほうが完成度が高いですからね。

ただ、『ハムレット』はその完成度の低さゆえにさまざまな解釈を呼び寄せ、読者を引きつけている、という面は無視できないと思います。偉大な芸術作品は完成度が低いことが多いです。作者の主観のなかで完成してしまった作品は、往々にして凡庸です。

 

⑤ 実存主義的読解

20世紀に入ると、『ハムレット』は哲学的文脈の中でも読み直されるようになり、とりわけ実存主義との親和性が指摘されるようになります。

その際、しばしば参照されるのがキルケゴールの思想です。キルケゴール自身はハムレット論を直接書いてはいませんが、彼の思考の枠組みは、ハムレットという人物を理解するうえで驚くほどよく適合します。

キルケゴール哲学の中心にあるのは、「決断」の問題です。人間は理性的にすべてを考え尽くしたうえで行為に移れるわけではなく、最終的には不確実性を抱えたまま選択を引き受けなければなりません。

しかし、反省が過剰になると、行為は先延ばしにされ、決断そのものが不可能になります。キルケゴールが描いた「反省によって麻痺した主体」は、まさにハムレットの姿と重なります。

ハムレットは、復讐すべきか否かを単なる道徳的二択としてではなく、存在全体を賭けた問題として引き受けてしまいます。その結果、あらゆる可能性を思考の中で開き続け、どれか一つに身を投じることができなくなります。この「可能性」による不安こそが、行為を遅らせ、主体を宙づりの状態に置くのです。ここで重要なのは、ハムレットの逡巡が性格の弱さではなく、主体のあり方そのものに関わる問題として理解される点です。

この文脈において、有名な「To be, or not to be」という独白は、新たな意味を帯びます。それは単なる生死の選択ではなく、「いかに存在するか」という根源的な問いとして読まれるようになります。生き続けることも、死を選ぶことも、いずれも主体的な選択であり、その重さに耐えられるかどうかが問われているのです。

こうしてハムレットは、20世紀哲学の視点から、実存主義的主体の先駆として位置づけられました。世界の意味が自明でなくなったとき、人間はいかにして決断し、行為へと踏み出すのか。その問いを舞台上で先取りしていた存在として、『ハムレット』は哲学的読解の中に回収され、近代以降の思想史と深く結びつくことになったのです。

 

⑥ 構造主義・ポスト構造主義

20世紀後半になると、『ハムレット』は構造主義・ポスト構造主義の文脈において、さらに根本的な読み替えを受けます。

例として、ここではジャック・デリダを挙げます。デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で『ハムレット』を重要な参照点として取り上げ、時間、正義、責任といった哲学的問題を考察しました。

デリダの関心は、ハムレットの心理や性格にはありません。彼が注目するのは、「父の亡霊」という存在そのものです。亡霊は単なる超自然的存在ではなく、過去から現在に向けて突きつけられる要求、すなわち未完の正義や果たされなかった責任の象徴として読まれます。父王の亡霊は、すでに終わったはずの過去が、なおも現在に介入してくることを示す存在なのです。

この文脈において、ハムレットは「遅れてやってくる主体」として位置づけられます。彼は自分の意志で行為を選択しているように見えながら、実際には過去の出来事とその要求に先行され、常に後追いの位置に立たされています。正義を実現しようとするたびに、それはすでに遅れており、完全な形で現在に回収されることはありません。正義とは、常に遅延され、先送りされるものなのです。

ここで重要な鍵となるのが、ハムレットの有名な言葉「The time is out of joint」です。デリダはこの一節を、単なる時代の混乱や秩序の崩壊としてではなく、時間そのものがずれてしまった状態、すなわち過去・現在・未来の連続性が破綻した状況として読みます。そのずれの中で、人は責任を引き受け、決断しなければなりませんが、その決断は常に不完全で、後からしか意味を持たないものになります。

この読みによって、ハムレットはもはや優柔不断な青年ではありません。彼は、歴史に縛られ、過去の亡霊に呼びかけられながら、決して完全な正義に到達できない状況で行為を迫られる主体です。

デリダ的読解は、『ハムレット』を心理劇や性格劇としてではなく、時間と倫理の不可能性を示すテクストとして浮かび上がらせ、解釈史の最終局面を鮮やかに示しています。

 

⑦ 現代思想・文化批評

20世紀後半から現代にかけて、『ハムレット』は思想史や哲学だけでなく、文化や歴史の文脈の中で読み直されるようになります。

その代表的な立場が、新歴史主義であり、その中心人物の一人がスティーヴン・グリーンブラットです。新歴史主義は、作品を時代を超えた普遍的精神の表現としてではなく、特定の歴史的・社会的条件の中で生まれた文化的産物として捉えます。

グリーンブラットの立場から見ると、『ハムレット』はまず復讐劇というジャンルに属する作品です。復讐劇は当時のイングランドで人気のあった演劇形式でしたが、その一方で、私的復讐を肯定する危険なジャンルでもありました。国家が司法権を独占しつつあった近代初期において、個人が正義を執行することは、政治的にも宗教的にもきわめて不安定な問題を孕んでいたのです。

さらに重要なのが、作品に登場する「亡霊」の存在です。父王の亡霊は、単なる劇的装置ではなく、宗教対立の緊張を体現する存在として読まれます。カトリック的世界観では煉獄の霊の存在が想定されますが、プロテスタント神学においては亡霊は悪魔的幻影と見なされがちでした。つまり、亡霊の言葉を信じるべきかどうかという問題自体が、当時の宗教的分裂をそのまま反映しているのです。

この視点に立つと、ハムレットの迷いは、個人の性格や心理の問題ではなくなります。彼が躊躇し、確信を持てないのは、復讐という行為がジャンル的にも宗教的にも正当化しきれない行為だからです。復讐を果たすことは正義の実現であると同時に、国家秩序や信仰の原理を脅かす危険な選択でもありました。

新歴史主義的読解において、『ハムレット』は時代の矛盾が集中的に表現されたテクストとなります。ハムレットは自由な内面をもつ近代的主体である以前に、相反する価値体系の狭間で引き裂かれた存在です。彼の迷いは、個人の弱さではなく、近代初期という時代そのものが抱え込んだ矛盾の表現として理解されるのです。

 

以上、ハムレットの解釈史の紹介でした。

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Posted by chaco