アリストテレスの形而上学をわかりやすく解説【プラトンとの違いはこれ】
アリストテレスの『形而上学』。全学問の祖アリストテレスの哲学的代表作とされる本です。
これはいったい何を主張した本なのでしょうか?実は、何をメインに主張しているのかいまいちよくわかってないというのが実情です。
というのも、そもそもこの本は作品ないし著作ではないからなんですね。アリストテレスが講義のために準備したメモやら資料やらを、わりと大雑把に集めて編集しただけの代物なのです。
古代人がアリストテレス全集を作るときに、自然学のパートの後に本書収録の文書を載せました。したがって本書は安直に「自然学の後」と呼ばれるようになります。そして「自然学の後」を日本語訳したものが「形而上学」です。
ではこの『形而上学』の中身が完全なカオスかというとそうとも限らなくて、なにか一定の方向性があるっぽいと言われています。
どんな方向に向かって話が収斂していくかというと、神学です。少なくとも本書の訳者である出隆やその教え子である今道友信はそのように考えている模様。
以下、この観点から、本書の思想をざっくり取り出してみたいと思います。
プラトンのイデア説を批判するアリストテレス
アリストテレスの思想は、師プラトンと対比して見ていくとわかりやすくなります。
プラトンといえばイデア説。地上の存在者は天上のイデアの劣化コピーにすぎないとする考え方です。
たとえば完全な三角形をイメージするとしましょう。僕たちはそれを容易に思い浮かべ、理解することができますよね。しかし考えてみれば、この地上のどこにも完全な三角形など存在しないのです。厳密かつ精密に見れば、どこか歪みがあるわけですから。ではなぜ僕たちは完全な三角形を理解できるのでしょうか?プラトンいわく、三角形のイデアが天上に存在し、僕たちはそれを想起しているというのが正解です。
アリストテレスはこのプラトンのイデア説を批判します。いろんな批判があるのですが、その核心となるのは、「イデアでは現実世界の生成や運動を説明できない」という主張です。
現実世界には生成変化がありますよね。たとえば何かの種があって、それを土に埋めると植物が生えてきて、そのうち花が咲いたり実がなったりして、みたいに。このような変化とイデアはどのような関係にあるのでしょうか?イデアがこの変化の原因なのでしょうか。それに種のイデアと草のイデアと花のイデアが別々にあるのなら、それらはどうやって関係しあえるのでしょうか。
プラトンのイデア説はこのような生成変化をまったく説明できない、とアリストテレスは主張し、自分なりの質料・形相理論へとアレンジしていきます。
アリストテレスの質料と形相(あるいは可能態と現実態)
アリストテレスいわく、存在者は質料とイデアの融合体です。ここでイデアは質料の目的(ゴール)になり、生成の原動力になります。
質料というのは純然たる物質とか材料みたいなイメージですね。まだ形のない混沌みたいな。そこに形(イデア・形相)が与えられて、あれやこれやの存在者(椅子や机など)になる。
プラトンだったら天上界に椅子や机のイデアを想定したところですが、アリストテレスいわく、それでは現実世界の生成を説明できないわけですよね。
アリストテレス哲学の場合、質料がそれを目指して生成していく先のゴールとして椅子や机のイデアが個物に内在しています。プラトンとは違って、こうして現実世界の変化とイデアが結びつけているわけです。
ただし質料といい形相といっても、それは相対的なものです。質料でも別の何かにとっては形相だし、形相でも別の何かにとっては質料ですから。
ではこの連鎖が無限に続くかというと、そうでもないんですね。形相を現実化する生成運動の果てには、もはや質料を含まない純粋形相がある、とアリストテレスはいいます。これこそがアリストテレスの神にほかなりません。
このようにしてアリストテレスのイデア論(質料・形相論)は、神学へと収斂していきます。
以上のことは有名な可能態・現実態の概念を使っても言い表せます。
質料は可能態です。どんな存在者にもなれるポテンシャルの塊みたいなイメージ。ここにイデアが与えられることで、質料はそれを目指して生成していくのでしたよね。
一方でイデア(形相)は現実態です。純然たる材料でしかなかった質料に、たとえば机のイデアが与えられて、質料は机へと向かって変化し、机として存在するようになる。可能態が現実態になったわけです。
こうして存在者は生成の過程でイデアを現実化していきます。そしてあらゆるイデアを現実化した完全現実態はエンテレケイアと呼ばれます。これは質料をまったく含まない完全なる形相的存在であり、やはり神の別名にほかなりません。
質料はイデア(形相)を目指して生成。可能態は現実態を目指して生成。そして生成の最終目的地になるのは純粋形相と完全現実態(エンテレケイア)としての神。
こうしてあらゆる存在者を己の方向に引きつける最終目的地としての神を、アリストテレスは「不動の動者」と呼びます。押すというより、引っ張るイメージです。
このようにアリストテレスのあれこれの概念は、神への生成という観点から整理すると、スッキリと一望できるところがあります。
ちなみに神に関するアリストテレスの議論は岩波文庫版『形而上学』下巻の第十二巻に収録されています。おそろしく難しいので、まずは出隆による巻末解説を読んだほうがいいでしょう。
アリストテレスの解説書ならこれ
アリストテレスの解説書はあまり出ていませんが、今道友信の『アリストテレス』(講談社学術文庫)はそこそこわかりやすいです。ただし文献学的なマニアックな議論が多いので、読み飛ばしの技術は必須ですが。
あとはシュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)のアリストテレスの章がものすごくわかりやすいです。
関連:ソクラテスとプラトンとアリストテレス シュヴェーグラー『西洋哲学史』
ラッセル『西洋哲学史』のアリストテレスの章も明晰でおすすめできます。
プラトンの解説記事はnoteに書きました↓