【戦国篇】井沢元彦の『逆説の日本史』を読む
『逆説の日本史』は、シリーズ1,000万部超えのベストセラー。
歴史の本であると同時に、「歴史の読み方」を教えるシリーズでもあります。
出来事そのものだけではなく、解釈の枠組み、たとえば宗教観などの前提に注目し、そこから歴史を再構成していく。その結果、教科書的な日本史とは異なる像が浮かび上がるのです。
吉川英治や司馬遼太郎を読んだ勢いで、本シリーズの戦国時代篇を読んでみました。印象的だったところを紹介します。
逆説の日本史10 戦国覇王編 天下布武と信長の謎
第10巻は織田信長を取り上げています。
・新しい権力を確立するために欠かせないのが、権威・賞罰権・軍事力の3つ。
・足利義昭からの副将軍のポストの誘いを、信長は断った。これは決定的な出来事。なぜなら、もしその誘いに乗れば、信長は義昭の賞罰権を認めたことになる。すると、義昭は武田信玄や上杉謙信をも副将軍に任命することが可能になる。将来的に、義昭は信玄や謙信に信長打倒の命令を下せるようになってしまう。
・浅井長政の離反は、信長にとって最大の挫折だった。これ以降、信長は従来の寛容な統治を改め、苛烈な政策を取るようになる。
・浅井長政の離反、そして浅井・朝倉の連合軍の結成をきっかけに、それまで中立だった宗教勢力が反信長へと傾く。
・信長は軍事力をもつ宗教団体を弾圧したのであって、宗教は弾圧していない。彼は思想の自由に寛容であった。
・信長が無神論者とされてきたのは、日本の歴史学者が宗教の知識に乏しいから。







・足利義教はあらゆる点で信長の先駆者。
・日本史においては、旧仏教と新仏教の争い、さらには新仏教の宗派間のあらそい(日蓮宗と浄土宗)が深刻だった。
・商工業者の信仰を集めていたのが法華宗。それに対して、農漁民の信仰を集めていたのが一向宗。
・信長の野望とは、すべての世俗権力および宗教権力を超え、神になることだった。安土城の構造にもそれが表れている。
・足利義昭は有能だが、運のない男だった。反信長の戦いは信玄の到着で炸裂する予定だったが、その信玄が急死したことですべての予定が崩れた。
・蓮如は政教分離を唱えた。しかし後継者の顕如は強硬的な態度に出て、信長の軍隊によって制圧されてしまう。




・なぜ秀吉は速攻で大坂城を築城できたのか。それは信長のアイデアであり、以前からすでに計画されていたものだから。
・大阪は国際的な交流をするには絶好の立地にある。国際的な時代にはここが栄え、鎖国的な時代には見捨てられる。ここを再び見出したのは蓮如だり、彼はそこに石山本願寺を建てた。






・日本の歴史学界は史料絶対主義に毒されている。










・秀吉の大陸侵攻も信長のアイデアであった可能性が高い。
・信長の野望は明のトップに日本の天皇を置き、自らはさらにその上の覇王として君臨することだった。これは天皇の消去といえる。
・本能寺の変がなければどうなっていたか。おそらく信長は秀吉よりも圧倒的に早く国家統一をなしとげた。秀吉が対処に時間をかけた柴田勝家などは、信長にとっては部下であり、徳川家康も同盟者だったのだから。その場合、秀吉よりもずっと良い条件のもとで大陸侵攻を行っていた可能性が高い。
逆説の日本史11 朝鮮出兵と秀吉の謎
逆説の日本史11巻は秀吉を扱っています。
これを読むと、秀吉の天才性がよくわかります。著者は「秀吉マジック」とか「大悪人」とかいう言葉を使っていますが、日本史上でもトップクラスの”天才政治家”だと言えるんじゃないでしょうか。
・織田政権にとっての不幸は、本能寺の変において、信忠までもが討ち取られてしまったこと。これはアクシデントだった。
・本能寺が光秀によって囲まれたときも、信忠の宿舎のほうは包囲されていなかった。信忠は逃げようと思えば簡単に逃げることができた。実際、信忠の側近は三法師をつれて脱出している。
・光秀は信長だけをターゲットにしたのであり、わざわざ飛んで火にいってきた信忠を討ち取ったのはラッキーにすぎなかった。ここから明らかなことは、本能寺の変は光秀がやけになって起こした暴走であり、天下取りの意図もなければ、黒幕もいなかった、ということ。もし巧妙に仕組まれた作戦だったら、初めから信忠を放っておくはずがないから。信長の後継者である信忠が生きていれば、織田政権は揺るがないのである。
・秀吉が天下を取れたのは、本能寺の変でたまたま信忠までもがいなくなったから。そして、三法師が救出されたことも決定的な意味をもってくる。
・信長が死んだことを隠したまま、秀吉は毛利との和平を結んだ。が、即座に信長の死は毛利にばれてしまう。帰還する秀吉をなぜ毛利は追い打ちしなかったのか? 小早川隆景がそれを止め、様子見を選択したから。これも秀吉にとっては幸運中の幸運だった。
・清須会議の後、柴田勝家は越前に帰ってしまった。これが失敗。この時点では三法師は信孝と勝家の手中にあったのであり、信孝ではなく三法師が信長を継ぐべきという秀吉の提言が通ったとしても、依然として信孝・勝家のグループが有利だった。しかし勝家が不在になったことで、秀吉は信孝から三法師を奪取することに成功する。






・徳富蘇峰いわく、秀吉は人間学の大天才。彼に対面すると、どんな人間でも催眠術にかかったように手に落ちる。
・小牧長久手の戦いのさいに家康がおかしたミスは、信雄を監視する人物をつけておかなかったこと。しかし家康にすらその可能性が思い浮かばないほどに、秀吉による信雄との講和締結はマジカルな一手だった。
・信長と秀吉と家康のやったことをセットで見るのが日本史を理解するコツ。たとえば寺院に対する武装解除政策もそのようにして捉えるべき。信長以前に強大な戦闘組織であった宗教勢力は、家康後になると従順な存在と化している。
・土地制度と税制は軍事と関連がある。戸籍が正確に把握できていなければ、戦闘員を招集することができないから。秀吉は正確なデータを作成し、日本で初めて国力を見える化した。
・秀吉の唐入りは、彼に情報を与えた者がいる。それはイエズス会の宣教師である。スペインと秀吉軍が共同で唐入りする可能性もなかったとはいえない。
・スペインはアルマダの海戦でイングランドにまさかの敗北を喫した。これがなかったらイングランドの次に明を攻めていた可能性はある。
逆説の日本史12 天下泰平と家康の謎
この巻は戦国ではなく近世の一冊目ですが、内容的には半分戦国のようなものなので、ここで扱います。
・長州の吉田松陰は歴史の授業で頼山陽の『日本外史』を使ったが、冒頭ではなく関ケ原から授業を始めたとされる。
・薩摩や長州の人間は、関ケ原で犯したミスを学習し、その知識をずっと継承し続けた。そして彼らが、明治維新以降の日本史をリードしていく。関ケ原の影響は昭和二十年にまで及ぶといっていい。
・家康は徳川家による支配を盤石なものとするため、朱子学をイデオロギーとして採用した。しかしその朱子学から生まれた水戸学は徳川支配の正当性を掘り崩し、やがて倒幕へとつながる。






・日本人が朱子学を研究した結果、だれが王者なのかという問題が発生した。それは徳川家なのか、それとも天皇家なのか。徳川は王者ではなく覇者である、という論調が優勢になっていく。
・一元的な権力が前提の中国ではこのような問題は起こらない。そこでは新たな支配者が新たな王者である。易姓革命という仕組み。
・徳川光圀(水戸黄門)は、家康の指示に従い天皇への忠誠を自他に示すことを果たした。それが徳川への忠誠だった。しかしその行いが結果として、幕府への批判につながっていく。













