国家ナショナリズムと宗教『維新の夢』【書評】

2020年10月24日

『逝きし世の面影』で有名な歴史家、渡辺京二。彼の論考を集めたコレクションがちくま学芸文庫から出ていて、その一巻目がこの『維新の夢』です。

明治維新期から戦前昭和までの日本に関する文章がまとまっています。7~8年ぶりに再読しました。

メインとなる内容は次のような感じ。

・天皇制について
・北一輝について
・明治維新について
・西郷隆盛と西南戦争について

他にも岡倉天心や横井小楠、権藤成卿などを扱った小品が収録されています。

本書の主題は、上からの近代化と下からの反動でしょうか。そして反動を近代化からの逸脱と捉えるのではなく、近代化の進展がもたらした不可避のプロセスであるとする点が特徴です。

もっとも印象に残ったのは、中間イデオローグによる天皇制の逆用と、民衆のなかにあるナショナルなもののゆくえに関する論考。

中間イデオローグによる天皇制の逆用

明治政府は上からの近代化を急速に押し進めました。それが社会にもたらす分裂や混乱を鎮めるために打ち出されたのが、近代天皇制というシステムです。

想定通り、近代化の進展とともに日本の大衆はそれに疑問を抱き始めます。しかしここで、支配者エリートたちの予期していなかったことが起こるのです。

一部の思想家や軍部などの中間イデオローグが天皇制を逆用し、民衆の不満を軍事ファシズムという形に昇華させたのです。

近代化を推し進める上で発生する分裂。それを乗り越えるために伊藤博文らが発明したシステムが近代天皇制でしたが、中間イデオローグはそれを、軍事ファシズムに動員するためのシンボルとして活用します。

支配エリートたちは軍事ファシズムの進展を前になすすべもなく立ち尽くしました。

渡辺はどちらかというと下からの反動に同調しています。民衆に寄り添えなかった支配者エリートたちに、終始批判的な視線を向けるのですね。

ただし思考停止の保守みたいな感じではなく、高度な知性に媒介された議論になっているので、読みごたえがあります。

 

ナショナルなもののゆくえ

大衆のなかにある「なにかナショナルなもの」。それが上からの近代化に違和感をもたせ、中間イデオローグに活躍の場を与えたのでした。

それは戦後どこへ消えたのか?

興味深いことに、渡辺は宗教にそれを見出しています。国家ナショナリズムという形で暴発していた民衆のエネルギーが、宗教コミューンへと昇華されたという見方ですね。ちなみに彼がこの文章を書いたのは1975年です。

ここで思うのは、逆もまたしかりなのではないかということ。つまり宗教が国家ナショナリズムに変容することもあるんじゃないだろうか。2000年以降の日本ではそれが起こっている気がします。

転機は1995年のオウム事件だと思われます。あれによって宗教への反動が起こり、そのルートが閉ざされた。そこへ流れ込むことを封じられたエネルギーは国家ナショナリズムへと向かった。

それが現在の大衆に見られる、奇妙な政治熱の一因になっていると考えられます。

もしオウム真理教が事件を起こしていなかったら、政治の形を取って熱狂する幻想的エネルギーの多くは、宗教へと昇華されていたはずです。

歴史の本

Posted by chaco