輪廻転生からの脱出法 ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』
チベットには『チベットの死者の書』と呼ばれる書物があります。チベット仏教の最重要文献のひとつであり、死者の魂を正しく導くためのガイドのような存在。20世紀に英訳され、今では世界中で知られています。
本書はその『チベットの死者の書』の内容を敷衍しつつ、現代人向けにさまざまな内容を盛り込んだ、生と死のガイド。著者のソギャル・リンポチェは現代チベット仏教の師です。
バランスと取れた記述がすばらしい。こういうジャンルってヌルすぎるか強烈すぎるかの両極端になりがちで、ちょうどいい塩梅の読み物がなかなかない傾向がありますが、本書は初心者にもすすめられる良書だと思います。
おまけに文章も文学的で美しいです。しかも日本語訳もいい。この手の本は訳者に恵まれることが多いです。おそらく多大な思い入れをもって訳されるからでしょう。
バルドとは何か
本書のキーワードは「バルド」。これは生と死を含む、魂の遍歴の各ステージのことを指します。
大まかには以下の4つがあります。
1.現世のバルド
2.死への移行のバルド
3.死後のバルド
4.再生のバルド
そして本書がもっとも力を入れて解説するのは2の死への移行のバルドです。なぜなら、輪廻転生から脱却する最大のチャンスが、このタイミングで訪れるからです。
ここが仏教の特徴であり、仏教が最強ともいわれるゆえんでしょうか。
この手のジャンルでも普通は人生とか死後の世界とか、あるいは輪廻転生を問題にしますよね。しかし仏教の見据えるゴールは輪廻転生からの脱却であり、人生も死後の世界もその前座にすぎないのです(準備体操としての重要な役割はある)
死ぬ瞬間は最大のチャンス
輪廻転生から脱出する最大のチャンスが死ぬ瞬間にあると説かれます。
たとえ今生において数多くの悪しきカルマをつんできたとしても、死の瞬間に真の意味で心を入れ替えることができるなら、来世に決定的な影響を与え、カルマを変えることができる。なぜなら死の瞬間はカルマを浄化することのできるきわめて強力な機会だからだ。
(ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』大迫正弘&三浦順子訳)
では死の瞬間にどうすればいいのかというと、まず執着を手放した状態であることが理想とされます。外面的なものも内面的なものも、すべて手放した状態で死に臨むのがベスト。
親しい人たちが臨終の場にいないほうがいい場合についても説かれています。それが執着を生み出してしまう可能性があるからです。
また、祈りながら死ぬことの強力な効果についても語られます。導師や仏陀に向かって助けを乞いながら死んでいくと、それが強力な効果をもたらします。
死者は死後すぐに光の体験をします。これはごく一瞬のわずかな時間。しかしこの一瞬のうちに何段階ものステージがあり、修行者はそれを見極め、ただしく光の正体を「認識」することで、輪廻からの解脱をなしとげます。
この一瞬のチャンスを逃すと、輪廻への傾向性に手を取られ、再生のバルドへと突入してしまいます。
くわしい解説については本書を参照のこと。
余談ですが、グノーシス主義のいう「光」とか「認識」ってこのレベルの話なのかもしれないですよね。
個々の瞑想方法や修行方法についてもある程度こまかく記載されています。ただし真髄をきわめるには師匠によるガイドが必要だと強調されます。
この一瞬を認識しそれを活かすことがいかに難しいかは、他の宗教書や臨死体験研究を読むとわかりますね。この段階について書かれている文章はほとんどないですから。
つまり多くの人は死の直後のチャンスに気づかず素通りし、いきなりあの世へ行ってしまうのだと思います。
再生のバルド
一瞬の光のステージを逃すと、われわれは再生のバルドへと突入することになります。
ここでわれわれは「意成身」と呼ばれる身体を与えられます。要するにこの段階が、ちまたに言われる「あの世」と「幽霊」なわけですね。
意成身は最初のうちは生きていたときと同じ姿をとるそうです。年齢は30歳ぐらい。生前の身体的障害はすべて癒やされています。
そういえばカルデックの『霊の書』には、生前に思い知的障害をもっていた霊が、高度な思考と言語で語りかけてくるシーンがありました。
意成身はどこにでも瞬間移動ができ、透視によってものごとを見通せます。先に死んだものたちと出会い話をすることもできます。
そしてこの段階でわれわれは生前の人生のすべてを辿りなおすことになるとリンポチェは言います。どんな細かいことでも、すべてが眼前に再現されます。
再生のバルドでは強烈な混乱状態におちいる霊も多いとのこと。いわゆる不成仏霊というのは、ここがスムーズに突破できなかった存在なのでしょう。
光明となるのは、祈りが効くこと。現世にくらべて、再生のバルドでは祈りの力が増幅されます。
したがって、仏陀でもキリストでもだれでもいいので、信頼できる導師に心からの祈りを捧げることで再生のバルドの混乱を抜け出せます。
生きているうちから祈る習慣をもっていた人ほど、これは容易くなるとのこと。
死者をサポートする方法
生者の祈りによって死者をサポートすることもできるとリンポチェは言います。
いちばん効果が出るのは、再生のバルドが始まってからの49日間。とはいえ、どれだけ昔に死んだ者であろうと、生者からの祈りは効力を発揮します。
仏や聖なる存在からまばゆいばかりの光が放たれ、あわれみの心や加護をそそぐと観想しなさい。死者にふりそそがれたこの光は、死の苦しみや惑乱を完全に浄化して死者を解き放ち、終わることのない深遠なる安らぎを与える。その時、死者は光へと溶けこみ、癒され、すべての苦しみから解き放たれた死者の意識は、仏の智慧と永遠に融合したと一心に観想しなさい。
(前掲書より引用)
とくに事故や事件で急死した死者は混乱状態にいる可能性が高く、このようなサポートを必要としているといいます。
ニュースでそうした死が報じられるときに、それを見ている人間が祈りを行えば、その効果は相当なものになりそうです。これはマスメディア✕祈りの可能性かもしれません。
遺族であれば、他にも、死者のために何かをするだけで死者へのサポートになるとリンポチェは言っています。たとえば死者の持ち物を布施したり、死者が望んでいたプロジェクトに死者の名前で出資したり、など。
「死者のためにできることはなにもない」という無力感は間違いであると、リンポチェは強く念を押しています。
エベン・アレグザンダー医師の臨死体験記(『プルーフ・オブ・ヘブン』)には、自分の身体のそばで祈っている親族のイメージが伝わってきた、という記述があります。あれを読むと、リンポチェの言っていることが真実味を増しますね。
臨死体験とバルド
本書の終盤は臨死体験についての考察になっています。
1970年代以降の医療の進歩により、世界中で臨死体験の報告が増えました。それをレイモンド・ムーディが研究して以降、臨死体験は医学の研究分野のひとつになっています。
リンポチェによると臨死体験は再生のバルドの入口にすぎないとのこと。両者を完全に同一視することはできないと考えているようです。
なお、臨死体験については「希望的観測だ」という意見を述べる人もいますが、それは的を外していると思われます。
仏教徒からすれば、死後に何も無いならそのほうがいいのですから。
死後が無ではない可能性に備えることで、いろいろな探求が促され、また死後への準備が必要になってきます。
死後の備えをして死んだ結果、死後にはなにもなかった。もしこうなってもダメージはゼロですよね。損する主体が存在しないのですから。それに予測通りに死後があれば、準備をしていたぶん得をします。
逆に、死後は無だと思っていたのに、死んだらあの世で目が覚めたというケースを考えてみましょう。この場合はおおいに損をします。本書でリンポチェが描いているような混乱状態や苦しみを味わう可能性も高くなるでしょう。
つまり、合理的な人間であれば、ソクラテスのいう「死の準備」をしつつ人生を送るはずなのです。
死後になにもないという想定こそがあまりにも楽観的な希望的観測であり、非合理なドグマや信条であるといえるでしょう。